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15%の壁 ~4周年記事~ [高次脳_ふと感じたこと]

4か月間の休職期間を経て、初めて復職した日の挨拶の場で、部員全員の前で僕自身が言った言葉。

「僕が7-8年後、働いている確率は15%らしいです。何とか15%に入るように頑張りたいです」。

当時、自身が高次脳機能障害を負ったということは認知しており(会社にもジョブコーチから説明済み)、その低い復職率の数字も本で調べて認知していたようです(名古屋リハ、脳外傷友の会のレポートの数字)。
ただし、はっきりと一つ言えるのは、自分はこの当時、高次脳機能障害を抱えながらの就労が難しい物であるというリアル認識はなく、低いその数字に不安を感じながらも「自分は大丈夫だろう」と思っていたことです。

その後4ヶ月間ほど猶予勤務をさせていただき、本格就労開始。

新しい上司の方と仕事をし始めてわずか1か月ちょっと後。
今までと同じように仕事ができない自分に、初めて本格的に自分で気付いてしまい、通勤中にフラッシュバックを起こして会社でなくて病院に直行。

もろもろ緊急で検査していただき、脳・心臓にともに異常なし。
この時にリハさんに、貴重なお言葉を頂きました。

「働き続ける限り、高次脳機能障害と向き合わなくてはいけないんですよ」。

数日休んだ後、会社に出社し、当時の部長と話をして、泣きながらその日は早退したのを鮮明に覚えています。
38歳で電車の中で一人泣きですよ。
受傷後10カ月、就労復帰して6カ月経過したときの話。

その直前には、心臓の再手術も受けて精神的にも不安な状態でもあったけど、受傷後、最も印象に残っている出来事の一つです。

障害の事はもちろん知っていたし、自分が「高次脳機能障害者」であることも認知していましたが、それが全く就労においてどんな影響を与えるものか、もしくは僕の人生や家族の人生を変えてしまうものか、リアルに感じてはいませんでした。
「自分は大丈夫だろう。こんな回復したんだ」くらいの認識。

リアルに自分の障害を認知してしまった時のインパクトは、人生最大の衝撃となって我が身に降りかかってきました。

これが僕の、高次脳機能障害と初めて真っ向勝負で向き合った瞬間です。

ここから数年間、見えない障害とがっぷりよつをするわけですが、この日を境に、この15%の壁は他人事ではなくて、極めて自分にとってリアルな状況であると認識しました。

と同時に、「45歳の年の8月に就労している」という目標が、自分の中で誕生しました。

「15%の壁」

今も同じ境遇の方々とグループリハでお互いを励まし合っていますが、みんなこの壁を乗り越えていきたいと思っています。
そして1%でも、この数字を向上させることに貢献したいと意識するようになりました。

15%なんて数字の社会は、早く変わってほしいですね。
だって、誰だって病気や不慮の事故で、病気や障害を受ける可能性はあるんですから。

不幸にして受傷してしまっても、人としてあたりまえの尊厳を持てる生活を送れる参加型社会保障の実現を望みます。

だって、高次脳機能障害を有してしまった方でも、残された機能はとても高いパフォーマスを有している方も、人間性がとても豊かな方も、沢山いらっしゃるんですよ。
できない部分で画一的に扱うのではなくて、できる部分を引き出すことにフォーカスしてくれると、嬉しいな。

社会全体がそんな視点を持ち始めてくれると、お互い気持のよい社会になると思います。

4年目の雑感。
僕が望むこと。
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傷ついた脳を再統合する ~4周年記事~ [高次脳_ふと感じたこと]

※受傷程度や環境等により個人差が大きいので、あくまでも僕個人の主観であることをご了承ください。

来月でもうすぐ受傷後丸4年。
こんなタイトル大げさかなとも思ったけど、自分が今まで経験したことや感じたことを、4年目の記事としてしばらくの間ブログで書いていこうと思います。

復職して、初めの半年くらいは「生還して何よりだ」「よく戻ってきた」と歓迎ムードですが、その後周囲も「そろそろ前のように働こうよ」というモードになります。
特に、僕は身体障害を有していないため、なおさらそう見られたように感じます(今でもそう見られてる感あり)。

僕も、受傷したことは復職前に認識していたのですが、高次脳機能障害が就労にどこまで影響を及ぼすものか、到底認識していませんでした。
治ったんじゃないの?なんて自分で思いこんでいた時が、一番わかっていなかった時期だと感じてます。

復職して半年間の慣らし運転が終わったころから徐々に業務量をあげ、病前のような状況を取り戻そうとし始めたころから状況が一変。

ダイレクトに、日々障害を体感する状況に陥ってしまい、混乱モードが頻発。
そして一時期「仕事=障害を気付きに行く場」という構造になってしまいました。
twitterを始めたころは、思い返すとフラッシュバックを起こしたりしてたり、フォロワーのみなさんにご心配をおかけしたりもしてました。
改めて、あたたかく見守っていただいた方々へお礼申し上げます。

今まであたりまえに行っていた、全ての記憶や思考や行動を、自ら能動的に行わないと機能しない、この歯がゆくもどかしい感覚。
なんでこんなに、今まで意識してもいなかったことに力を割かなくてはいけないのだろうか。
そもそも、こんなこと考えること自体にも疲労を感じる。
この感覚はたぶん、同じ受傷された高次脳機能障害の患者さん同士しか解りえないと思います。

復職が進み、そんな自分に、気付き始める自分。

疲れる。
気が張る。
疲弊する。

病院に通っている時よりも、社会に戻ってからのほうが、はるかに多くの高次脳機能障害にお会いしました。

本当に見えない。
高次脳機能障害。

何度も全てを投げ出したくなりましたね。
だから受傷後、2回も会社を辞めてしまったんだと思います。

逆にここまでして、自分を取り戻すべきだったのだろうか?
自分の受傷程度でこんなことを思うのは失礼かもしれませんが、自問自答した時期もありました。
もし僕が発症時、年齢も60歳近くで子供たちもみな成人していたら、多分、就労復帰はここまで求めない道を選んだほうが幸せだったと感じます。
妻も子供も、毎日「つらいつらい」と言いながら帰ってくる僕の姿は、見たくなかったと思います。

でも現実は、受傷時僕は30代半ば、妻と未就学の二人の子供と、お腹に3か月の赤ちゃん&住宅ローン30年という、なんともきつい状況。
それゆえに、なんとか取り戻したく、過酷だけど継続就労を目的としたリハ街道を目指すこととなりました。

結局のところ何をしたかというと、自分が失った機能を時間をかけて確認。
確認といっても見えないので、再体験で確認した部分が大半です。
と同時に再体験で障害を確認すると凹むので、周囲にもその過程が発症することを説明して、丁寧に取り戻していった感じがしてます。
気持ち切り替え術や、イヤナコトスルー、見えるか?アピールも、役立ちました(この辺りは後日書きます)。

残された記憶や機能を確認し、ひとつひとつ丁寧につなぎ合わせ、受傷後の脳機能を再統合していくことが、
僕の高次脳機能障害と向き合っていくポイントであると、勝手に決めてやってきました。

そう考えるようになって、おおよそ1.5年ほど経過。
今では、もちろん不具合はあるものの、取り戻せるところは取り戻してきたのかなと感じるようになりつつあります。
そして「障害を得たのは辛いけど不幸ではない」と、4年経って少しずつ思えるようになってきました。

受傷後4年目の雑感。
しばらくこんな感じで記事を書いていく予定です。
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天命「お互いの幸せを考える」 [高次脳_ふと感じたこと]

社内のまとまりが落ちていた時に、新たに赴任したトップの所信表明。

開口一番

「お互いの幸せを考える」。

極めて共感しました。
最近、なにか辛いことがあったり息詰まったりしたときに、この言葉を想い返すようにしています。

この障害は、自分を取り戻すだけでいっぱいいっぱいになる期間があると感じます。
そして、僕も自分を維持するだけでいっぱいいっぱいの状態になりました。

自分のことだけで精一杯で、その上、相手に配慮する「機能」も「余裕」もそがれてしまうのが、この障害の特徴でもあると感じています。


もうすぐ病後丸4年。

すこし変化が出てきました。

妻の幸せって何だろう。
3人の子供たちの幸せって何だろう。
父や母や支えてくれた家族の幸せって何だろう。

ある一定の機能回復と、代替手段の習得と、障害への考え方の変化により、心に余裕が出てきたのが要因ととらえています。
こんな事思えるには4年の歳月がかかりましたが、そう思えるようになってすこしずつ自発性があがり生活全体の活動も徐々に向上してきました。

自分の幸せだけでなく、相手の幸せを考える事ができるようになってくると、なにか生活全体が円滑になってきた感じがしてます。

不具合はあるし不器用になってしまったけど、
父親であり夫であり子であり会社人であり一障害者であり、
それでもお互いの幸せを考えながら前に歩んでいくのが、僕の天命なんだろうと、
ふと感じました。

そして何よりもその姿が、同じ境遇の方々の励みになれば幸いなのかな、と思いつつ何気に綴ってみました。

※受傷程度により異なりますので、あくまでも僕個人の主観です。
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できることが増えてるよ ~一日一できたメモ~ [高次脳_役立つ考え方]

日曜日は子供の野球2試合があり、それを見に行きました。
天気も良かったし、息子も試合に出るということで自発性300%にして出動。

その間、いくつか新規トラブルが発生。

1試合目、自転車に乗って河川敷のグランドに行ったんだけど、行く途中でチェーンが外れて自分で直せる範疇になく立ち往生。
試合は始まっているし、かみさんの携帯はつながらないし、さらにさらに立ち往生。
突発的な事象に弱いうえ、その上加速させるような事象が重なると、戸惑って思考が止まってしまうことがあります。

かなりあせりましたね。

でも、そこはおちついて、まずは近くにあった自販機で水を買ってごくり&深呼吸三回。
かすかな記憶を引き寄せ、近くに自転車屋さんがあったことを思い起こし、何となくそこまで自転車を引っ張って行きながら見つけました。
ありましたよ自転車屋さん。
すぐに直していただいて、汚れた手もきれいにでき、一試合目に間に合いました。
baseball.jpg

その後、2試合目の会場に自転車で移動。

絵に描いたように第2トラブル発生。
当然のごとく迷ってしまい、一時停止を取り締まっていたおまわりさんにも聞きながら、何故だか目的地から3k以上離れた別の小学校に到着。

自分でもこれは意味不明。

メモはしていたものの、携帯のマップで小学校のマークが見えたので、確認もせずにたまたま画面に表示された学校に向かって行ってしまったのが原因。

妻に「野球じゃなくてサッカーの試合やってるんだけど、どういうことだよ」と電話で言ったら、違う小学校に行ってたことがやっとここで発覚。
心が折れそうになったけど、ここも水&深呼吸三回。
こいでこいで何とか2試合目のグランドに到着。

間に合った。

結局、息子の空振り三振をみて、無事に戻ってきました。
この日は計10km走行(サイクルメーターつけています)。

もしかしたら、障害がなくてもこういうことはあり得ると思うような出来事だけど、そこが区別できなくて苦戦するのも高次脳機能障害の特徴かもしれません。
僕的には、復職して3.5年、山ほどこういうことを体験してきたので体験記憶で対処できるようになってきたのも事実です。

むしろ、この状況を解決できた自分を褒めたいと思えるようになってきました。

普通の人からすると、こんなの普通のことに見えるだろうし、幼少期に経験しておくことだと感じるかもしれませんが、人生経験の要である過去の記憶をなくした者からするとこんな当たり前の事でも、前に歩もうという新しい自分創りの大きな一歩になりえます。

そんな当たり前の「できたメモ」を、カレンダーに毎日一言メモしたりしてます。なるべくとっておくようにしてます。
一言だけでもメモしておくと、あとからとても想起しやすいですね。
前にも書いたように、いわゆる成功体験記憶のチャプターをメモっている感じです。
river.jpg
日曜の僕の経験は、苦い経験をした自分だけではなく、問題を解決した自分もそこに同時に存在してます。
高次脳機能障害を有すると失敗経験ばかりインプットされやすい傾向もあることも実感しているので、ネガスパイラルを断つためにも、今後の自分のために成功体験を一日一メモでもカレンダー等に入れるようにしてます。

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