障害を認識するきっかけ「認知」 ~5周年記事~ [高次脳_ふと感じたこと]
「高次脳機能障害を認識するきっかけは?」
これは一言では難しいね。
ある日突然、「障害を認識しました!」って訳ではないから。
5年という歳月を重ね、ゆっくり認識してきた感じです。
でも振り返ると、その中にも認識のきっかけとなりうる事象が、いくつかありました。
そもそも「認識」はどのように構築されるか?
個人的な見解ですが、「認識」は3つの段階を経て構築されると捉えてます。
1.認知(高次脳機能障害の名前を知っている)
2.理解(高次脳機能障害の名前を知っているし、内容も理解している)
3.受容(高次脳機能障害の内容も理解しているし、自分ごととして受け入れている)
まず、一つ目の「認知」について。
そもそも何をもって「認知したか」とするのか悩むところですが、“メモリーノートに「自分は高次脳機能障害を受傷した」と自分で書いた”時がありました。
それは、受傷後2カ月ちょっと経ったときのこと。
親戚が、僕宛ではなく、妻宛に送った数枚のファックスがきっかけでした。
中身は、埼玉県の高次脳機能障害の簡単なパンフレットをコピーしたもの。
それと一緒に、「辛いかもしれないけどがんばれ」とのメッセージが。
棚にしまってあったのを、たまたま僕が見つけてしまったんです。
読んで驚いたのですが、自分の症状とまったく同じことが書いてあり、「俺はこの高次脳機能障害なのか?」と妻に詰め寄ったとのこと。
その日のメモリーノートには、「正直、驚愕した。そして、何よりも行政が発行しているパンフレットであることが励みになった」と書き記してあります。
実はそれまでの間、病院や家族から「高次脳機能障害」の説明を何回か受けており、その都度、自分も「わかった。わかった。」と言っていたそうです。
参考までに、その時(受傷二ヶ月後)の三宅式記銘検査(10問)の無関係対語試験のスコアを。
1回目「0」
2回目「0」
3回目「1」
泣けるね。
このスコア。
無関係の言葉は、ほぼ覚えられない状況でした。
一方で、有関係のスコアはある程度保たれていました。
なぜ、認知がなされたのか?
「高次脳機能障害=自分に関係がある重大なこと」という、有関係の方程式ができたからと捉えてます。
では、何がきっかけで、有関係の方程式はできたのか?
当時は症状もひどく、自分の認識にも信憑性を持てない部分もありますが、あえて思い返すと以下のことが挙げられます。
・脳機能が回復してきたこと。
・情報接触が偶発的であったこと。
・第三者からの間接的な指摘であったこと。
・情報元が行政機関であったこと。
脳機能の向上は自然回復として、その他3項目について。
「情報接触が偶発的」
多分、そのファックスを、直接、見せられても見なかったと思います。
高次特有の、押し付けられる事に拒否感や抵抗感を抱く傾向が強くあったので。
そんな状況の中、偶然見つけてしまったところに、自然に情報を受け入れることができたと感じます。
「第三者からの間接的な指摘」
妻や病院の方からいくら言われても「ふーん」という感じだったんですが、ちょっと離れた方からズバッと言われると、スーッと頭に入ることが多々があります。
この場合、僕宛ではなく、妻宛にねぎらいの言葉と一緒に送ってきたものを見てしまったため、脳が「客観的な大ごと」と認識したのが大きな要因と感じています。
「行政機関という肩書」
それは当事者向けのわかりやすいパンフレットでした。
でも、わかりやすいだけでは、ここまで意識の変化が起きなかったと思います。
衝撃的だったのは、この障害は「行政がオフィシャルに対策をしている、結構大変な障害」であるという認識がなされたことです。
事実、メモリーノートにはそのことが書かれており、どこで調べたか、結構社会的にも問題になっていることまで書いてました。
これらのことが重なって、「高次脳機能障害=自分に関係がある重大なこと」という方程式、いわゆる「認知」がなされたと捉えています。
「認知」において、情報の入り方、いわゆるスタイルはとても大切であると感じます。
客観性・信憑性があって、印象度があって、そして何回も接触して。
情報接触の、質と量とタイミング。
これらがうまく重なると、自分に関係ある情報と認知されやすい傾向があります。
これって健常者でも同じ。
ただ、それがより顕著にでるんでしょう。
とりあえず、「障害認識」の第一段階である「認知」について掘り下げてみました。
こんな感じで、5周年記念記事は自分を振り返ってみようと思います。
受傷して5年が経ちました~5周年記事~ [高次脳_ふと感じたこと]
受傷してから、もうすぐ5年。
その間、いろいろなことがありました。
何が起きたか、わけのわからない急性期。
なんでリハ受けてるのかも、あまり理解しないまますごした回復期。
障害の本質が見えてきた、維持期・社会復期。
あたらしい自分が見え始めた、社会共生期。。。
先日、都心障(東京都心身障害者福祉センター)で講演させていただいた際、講演後にいくつか質問をいただきました。
・障害を認識するきっかけは?
・障害と向き合うきっかけは?
・どの時期にどんな支援があったか?
・どの時期にどんな工夫をしてきたのか?
40分で5年分のことを、ギュっと詰めてお話させていただきましたが、とても話しきれませんでした。
そこで、5周年記事として、これから数回に分けて、つらつらと書いていこうと思います。
苦節5年。
仕事しながらなので、週一ペースで。
自分なりに感じたことをつらつらと書きますね。
記憶旅行 [高次脳_ふと感じたこと]
先週、ちょっと早めの夏休みをとって、家族旅行に行ってきました。
旅先は沖縄。
受傷後、飛行機に乗った家族旅行は初めて。
我が家にとって、5年ぶりの沖縄旅行です。
きっかけは、4歳の次女の一言。
当時、まだ産まれていなかった次女が、5年前(受傷直前、2008年)の自分のいない家族旅行のDVDや写真を最近見るようになり「行ってみたいなぁ~」と。
※5年前の沖縄水納島での長男・長女の写真。後ろに伊江島のタッチュー(城山)が見えます。
この映像を含め、病前の出来事を思い返すことが辛かった時期がありました。
なぜなら、記憶がなくなってしまったことが自分で体感できるからです。
「こんな大切なことも忘れてしまったのか。」
あれから5年。
生死の淵から、つぎはぎの社会復帰を経て、僕自身も家族も落ち着き始めました。
そして、
新しく産まれた次女にも同じ体験をさせたく、
失われた記憶と向き合いたく、
ここまで取り戻したことを確認したく、
もう一度、あの場所で家族写真を撮りたく、
意を決して、行ってきました。沖縄に。
出発前の羽田空港。曇り空の中、次女が折り紙で飛行機を作っていました。
僕の記憶障害は、逆向性と前向性の両健忘を有しています。
医学用語って難しいね。
ようするに、過去の記憶喪失と、新しいことを覚える記憶力の両方に難があります。
記憶喪失については、過去半年~1年はがっつりと。
そこから過去数年分はなだらかに記憶が失われていて、昔のことは比較的覚えている状態。
失われた記憶は、同じ体験やふとしたきっかけで、蘇ってくることもあります。
だから、旅程もほぼ当時と同じにして、記憶だけでなく当時の感覚も取り戻しやすい旅行にもしました。
那覇空港を出たら、そこは真夏。
そうそうこんな感じだった。
「ここの風景、覚えている」
「ここのお店、買い物したよね」
「ここで写真、撮ったよね」
「この海、来たよね」
車窓からの風景ひとつにしても、記憶が湯水のように蘇ってきます。
記憶が溢れ出る。
この感覚は、記憶を失ったものでしか体感できないと思う。
ものすごい衝撃と、取り戻した感動が、頭の中を過ります。
もとぶ元気村での、いるかトレーニング体験と3人の子供たち。
海上いかだでの釣り。
水納島ビーチのお兄さんと次女。
そして、5年前と同じ水納島のビーチで、次女も入れて3人で記念撮影。
3人揃ったこの写真を、どうしても撮りたかったんです。
今回の旅行は、単なる家族旅行ではなく、僕にとって記憶を蘇らせる旅になりました。
そして、新たな家族と一緒に、再び思い出の場所に来られたことに、ちょっとした自信や生きがいにつながったのを感じます。
実際のところ、旅行のプランもうまく立てられず妻に手伝ってもらっていますが。。。
でも、改めて思い出の場所で同じ写真を撮れたことに5年間の苦節が報われた気がした、そんな記憶を振り返る良い旅行でした。
おまけ。
道中、俳優の杉浦太陽さんと、元モーニング娘の辻希美さん夫妻と同じホテルでした。
辻さんの親も一緒で、妻なんかプールで世間話しをしていましたよ。
とても、仲睦まじい夫婦でした(2人のブログで沖縄旅行のこと絶賛書込中)。
その後、僕と長男は、杉浦さん親子と大浴場も一緒で。。。