先日10月21日(日)に、平成30年東京都港区高次脳機能障害理解促進事業「高次脳機能障害講演会」で、当事者として60分間講演+国立リハビリテーションセンター今橋先生と対談をしてきました。
今回は講演内容を結構変更して、10年間の想いをこの60分にかけてみました。
内容のポイントは、
■苦労したこと:3つの壁(いきづらさ)の存在脳損傷=「見えづらい・受け入れづらい・対処しづらい」という、高次特有の3ついきづらさの存在により、就労~生活不安定が生じ、「人間の究極の幸せ」が人生半ばにして喪失したこと。
■工夫したこと:3つのいきづらさを軽減する 1:見えづらさ⇦受動・能動的な障害認識機会の創出 2:受け入れづらさ⇦特に、茶話会や患者会や講演会等での振り返り/言語化(自分を説明できること) 3:対処しづらさ⇦自分一人で解決しようとしない。社会的支援も活用して環境調整を実施。ジョブコーチ介入が有効。
■望むこと:医療・福祉の体制作りから、社会的な解決力を活用するステージへ。
現在の医療・福祉体制では解決できないことが多く、特に社会に戻る前の体制作りはある程度整ってきたものの、社会に戻った後の体制は脆弱で整備が急がれると感じる。各々が、円滑に各スタートラインに立ち、いかに残された機能を活用し、余生のQOLを維持・マネジメントできるか?という視点が重要。加えて生活~就労復帰は、当事者からすると決してゴールではなく、スタート地点であること。そのための提言として…
~直接的支援:生活・就労復帰の具体的施策拡充~
①当事者の、円滑な生活・就労復帰体制の早期構築(ジョブコーチ早期介入)
②支援者(家族・配偶者)の、負荷軽減・支援体制の早期構築(インフォーマルケアコスト対策)
~間接的支援:多様なニーズへの自助解決力の向上~
③患者会・家族会・当事者会の更なる拡充による、多様なニーズへの支援体制の確立。特に、支援者・当事者会の促進(働きながら・ハンデを負ったうえでの活動に支援を)
~社会的処方 社会認識の醸成による支援の循環~
④高次脳機能障害者への、合理的配慮・社会共生への支援促進
⑤社会レベルでの、認知・理解促進(現在の話題性(google trend)は発達障害・認知症の1/20、支援が社会復帰で切れている可能性大)
を挙げさせていただきました。医療や福祉の体制作りは、ここ十数年で先人の方々の多大なる尽力で整ってきました。社会復帰を目指す当事者も増えてきました。
一方で、医療や福祉の枠組みでは解決できないことも多く生じてきました。
次は社会的な解決力や包括力を活用して、より良い共生を目指すステージに来たと感じます。その手段としての法整備も視野に入れて、今後向き合っていくことが重要と感じることを、プレゼンテーションさせていただきました。
ちょっと時間が過ぎてしまいましたが、同じ当事者の方のことも頭に描き、心を込めてお話しできたと思います。
この機会をいただいた、港区、東京高次脳機能障害協議会(TKK)の皆さま、国立リハビリテーションセンター今橋先生、ご来場いただいた皆様、資料作りでご協力いただいた日々コウジ中の柴本さま、杜のハーモニーさま、こちら未来の会さま、今までお世話になった医療者、行政支援の方々、データ使用許諾をいただいた熊本県高次脳機能障害支援センター様に心より御礼申し上げます。
来月は、11月11日港区芝(田町)で行われるピアサポート実践報告会(国リハ主催)に、知人(未来の会)が登壇するので行ってこようと思います。
僕にとっては、受傷後9年目を迎える年となります。9年って・・・長いようですが、本人からすると「良く分からないっ!」というのが本音。
あたらしい記憶ができづらいので、病後の時間の流れ感がつかみづらいです。
あわせて過去の記憶も若干ないため、病前の時間の流れ感がわからないです。
なので、「良く分からないっ!」ってなるんでしょう。
ただただ、なんとなくもどかしくて遅い感じです。
こんな状況にも大分慣れてきた9年目。
受傷時幼稚園生だった長男・長女は、すでに中学生になりました。
毎日、学生服で通学してます。
受傷時お腹の中にいた次女は、小学2年生に。
冬休みが明けたと思ったら、インフルエンザで学級閉鎖。
学校がお休みです。。。
自分の経年感覚は「良くわからないっ!」なのですが、子供の成長に重ねて、しっかり時が進んでいることを認識するようにしてます。相変わらずそんな状況ですが、先日、町田市にある、障がい者福祉センターひかり療育園のひかりサロンで、少しお話をしてきました。
住宅街の中に、きれいで予想より大きなバリアフリーの建物があってびっくり。若干写真を、昨年ヒットした映画「君の名は。」風にしてみました。映画はまだ見てませんが。。。
やはり施設がきれいというのは重要ですね。私たちは、大きな病やけがからの再起や共生をめざして頑張ります。
ここの施設のように、当事者のこころが落ち着くようなような施設はいいですね。そうそう、こころが満たされる施設と言えば、昨年秋、日本で初めてマギーズセンターが豊洲にできたのを思い出しました。マギーズセンターとは、イギリス発祥のがん患者のための、自分を取り戻すための空間や支援を提供するオープン・コミュニティ施設。
詳しくは、検索してみてくださいね(汗)。
そんなことをふと思いながら、当事者の体験談をお話ししてきました。
主にこの3つ。
・自分を捉えるのに、苦戦したこと。
・3つの「づらい」を解消して、あたらしい歩幅をさがしたこと。
・私たちが社会参加することで、社会が柔らかくなると信ずること。
昨今、巷では仕事で命を経つという悲しい事件がありました。
そんなギスギスセカセカしたこの世において、「一次元一軸の世界で生きる私たちの歩み方」は、むしろ貴重な存在。最近言われている「働き方改革」や「ライフワークバランス」、これからの「超高齢化社会」「2025年問題」「認知症問題」などなど、私たちの生き方が社会課題の解決のヒントになるとも思っています。「私たちが活きやすい社会は皆が活きやすい社会」であることを礎に、一緒に社会参加をしていきましょう という内容で話を結びました。
9年目にして、ここまで伝えることができれば良しとしよう。
こんな感じで始まった2017年。
今年もよろしくお願いします。
例年に比べて1週間遅い梅雨明けで、明けてからも暫くは変な天気が続いてましたが、ここ数日は35度を超える猛暑日。
まさに夏本番。
ひまわり全開だったり。
セミの抜け殻あったり。
それを見て娘が真似したり。
とりあえず、真夏モードになってます。
子供たちも、それぞれの夏休みを満喫中。
中一の長女は、一人で新幹線に乗って大阪の親戚の家に。
中二の長男も、毎日コツコツと野球の練習に勤しんでます。
わが子が、一人で色々ととできるようになってくると、親としてはすこし寂しいですね。
親離れする前に、沢山遊んであげてあげればよかったなと、遅ればせながら少し反省してます。
でも、そんな余裕、なかったんだよね。。。
不運なことに長男が幼稚園の時、心停止を発症してそのまま高次脳を受傷。そのうえ過去数年分の記憶も飛んでしまい。。。
子供と一番思い出を作る時期の直前に受傷したのが、正直、悔しい部分だったりします。でも、それはもう口にしないと決めたので、もう口にしませんが。。。
そんな我が家ですが、先日、物置を探索してたら、アウトドア用品がぞろぞろと発掘。タープ、ランタン、シュラフ、アウトドアテーブル、BBQコンロ、ダッヂオーブンなんて2つも。本当は、子供が小学生になったら、キャンプ場に連れてって、川遊びして、釣りして、BBQして、テント張って、寝袋で寝て・・・みたいな、親子の夏休みに憧れていたのです。
残念ながら、その後キャンプに行くことは一度もないままに。
何度か試みようと思ったんですが、やっぱり段取りや準備がうまくできないんだよね。
それ以外にも、もろもろ影響が出てしまうため。。。
そうこうしているうちに、当時幼稚園生だった長男長女は中学生に。
親と一緒にというよりは、友達と一緒に遊んでいたほうが楽しい年頃になってしまいました。
闘病と社会復帰に勤しんでいる間に、機を逃しちゃったかな。
まあ、病気・事故に関係なく、まだ結婚していない知人も、子がいない知人も、連れ子!?が大学生という同級生もいるので、人生何が幸せで何が起こるかわからないですね。
もうすぐ、受傷後丸8年が経ちます。
自分の日にち感覚の記憶が悪いので、「8年」という歳月の感覚がいまいち緩いのですが、でも、子供はしっかり育っています。
先週、長女が作ったスイカのサメ。こんなの一人で作るんだよ。中学生にもなると。
中身はスイカの身とソーダでスイカポンチに。
我が家の今年の夏は、これで海のリゾート気分を味わうこととしました。
東海地方まで梅雨明けしたので、 関東地方ももうすぐ梅雨明けか。
すでに気分は夏モード。
ポロシャツで通勤。
今日のランチは沖縄料理。
屋外プールも、屋外ビール!?も、
すでにデビューしました。。。
そして夏といえば高校野球。
長男が野球をやっていることもあり、必然的に見るようになりました。
地区予選が佳境で、こちらもかなり暑い状況に。
僕のところは西東京地区。
先日、今話題の早実・清宮君を見に行きました。
夏の青空にスカッと本塁打。
実のことを言うと、どっちが勝ったとかは覚えられても、何対何で勝ったとか詳細までは覚えられなかったりします。
かたや細かいことは覚えられなくても、印象の大きいことや興味があることは記憶として残りやすいので、なんとなく強引につなげて後はテレビやネットのニュースで振り返り&ストーリーを補完。
これで自分を納得させています。
受傷後丸8年が経ちますが、今の僕の日常ってこんな感じで、この日常的に記憶が悪い状況にだいぶ慣れてきた感じがあります。
先日の、脳損傷ケアリングコミュニティ学会の講演後に、長谷川大会長とこんな会話を交わしました。
うろ覚えかもしれませんが。。。
大会長「どのタイミグで障害受容したと思ってる?」
僕「正直、今でも100%受容したと確信が持てないです。毎年その時は受容したと思っていても、そこから時間が経つと「あの頃思い返すとまだまだだったな」と思うことが多々あり、いつまでたっても100%受容したとは思えないです。そこに脳損傷の辛さがある一方、考えるときりがないので、最近はあまりこだわらないようにしてます」
大会長「何人も患者さん診てるけど、みなさんそう感じてると思うよ」
・・・どうやら割り切りも重要のようです。
時を同じくして、会社の講演会で「納得解」という考え方を教わりました。
今までは「正解(正しい答え)」や「最適解(ベストな答え)」というのが求められていたけど、多様な価値観が尊重されるこれからの時代、他人の引いた指標に合わせるのではなく、答えが正しかろうが正しくなかろうが自分が導き出した答え =「納得解」に一番意義がある、というここ数年でビジネスや教育、ワークショップ等の分野で急速に浸透し始めてきた考え方です。
受傷8年が経った今の自分の考えは、これに近いかと。
障害と歩むのに、「正解(正しい答え)」や「最適解(ベストな答え)」 なんてものは、そもそもないと最近思うようになりました。
記憶が悪くても、段取りが悪くても、話の筋道が立てられなくとも、先読みできなくとも、
悪いなりに自分で決めた「解」に意義があり、50万人いたら50万人の「解」があると感じます。
「解を求めない」「時の流れに任せる」というのも、一つの「解」だと思います。
それを引き出してあげる支援や、多様な解や価値観が否定されない環境があって、当事者は障害を受け入れることができるようになり、ついては共生社会につながるかと思います。
正解や最適解を追い求めない人生の歩み方を当事者が始めた時、それが受容の始まりかもしれないですね。
そう感じる今日この頃です。
受傷後8年。
障害者雇用に切り替えてちょうど丸1年。
父親が亡くなり2ヶ月が経ちました。
ちょっと自分の人生の歩み方に変化が起きている、そんな気がする梅雨明け前の心境でした。
]]>今までの経緯を簡単に。
■就業のこと
障害をオープンにして通常雇用で働くという微妙な働き方をしていたのですが、昨年、受傷後7年にして障害者手帳を取得。
障害者雇用での就労に舵を切りました。
とはいえ、幸いにもまだまだ残されている機能もあり、通常の障害者雇用よりも少し高度な業務も行う、「通常と障害者雇用の中間くらい」の環境で、今は働いています。
あたらしい雇用先の、柔軟な対応・配慮に感謝。
すでに働き始めて1年が経過しましたが、負荷も減り、社内での立ち位置もなんとなく出来てきた状況です。
この4月より「障害者への合理的配慮」が法的に義務化されました。
高次脳機能障害のような「見えない障害」の場合、「合理的配慮」を得るには、現業において当事者・雇用先の両者が、「何ができて何が苦手か」を共有している必要があります。
過去8年の就労経験で得た「できること」「できないこと」の把握が、今の就労につながっていると感じます。
とはいえ、体制を変えてまだ一年の話なので、しばらくはこの状況を維持することに集中する予定です。
■家族のこと。
先月、実父が亡くなりました。
1年3か月の闘病生活。
最後の数ヶ月、僕自身はもう何が何だか困惑しておりましたが、家族の支えもあって無事に送り出すことができました。
大変辛い出来事ですが、誰しもが経験する道。
心を落ち着け、前を向いていこうと思います。
■講演・情報発信活動を再開しました。
さる5月のGW、脳損傷者ケアリング・コミュニティ学会東京プレ大会にて、基調講演(40分)をさせていただきました。
父親の亡くなる3日前だったので、実のことをいうと極限下での講演でした。
テーマは「脳損傷とともに歩む」
この8年間で自分は何を得たのか?
それは、受傷後の自分の「歩幅」探しの道のりだった、というお話をさせていただきました。
受傷してから丸8年が経とうとしています。
私の障害が無くなることはありませんが、残された能力の活用や環境の調整で、社会と一緒に歩んでいこうと思ってます。
いや、我々が歩んでいける社会は、結局、万人がいきいきと活躍できる社会の実現につながるかと。
競争から共創の社会へ。
時間はかかるけど、なんとなく社会全体がそういう動きに舵を切り始めていることを願います。
あけましておめでとうございます。
遅ればせながら、本年もよろしくお願いします。
昨年は、終盤でスタミナ切れとなってしまい、しばらくの間静養することとなりました。
そのためブログもひと休み。
ご心配をおかけしました。
本年も、引き続きしばらくの間、体調を整えることに専念し、落ち着いたらあらためて復帰する予定です。
そんな出だしの2015年ですが、今年で受傷7年目を迎える年となります。
休み休み休憩しながらも、着実に歩んでいける年にしたいですね。
Slow but steady wins the race.
受傷後、恩師から頂いた座右の銘。
オレっちマイペースで、今年もいきます。
※サンタさんからの娘へのプレゼント、巨大ジバニャンのプラモデル。
毎日表情変えて楽しんでます。
]]>時間記憶(エピソード記憶)が悪いのが、原因だと感じています。
そんな先月10月を、どんな月だったか、記録から振り返ってみました。
■子供の成長を感じた10月。
9月に続き、10月も子供のスポーツ系イベントが目白押しでした。
幼児園年長の次女の運動会パート2(運動会とは別にスポーツイベントがあるのです)。
トラック1周(150mぐらい)を、ウオームアップ、かけっこ、リレー予選、リレー本線と、計4-5回ほど全力疾走してました。
とにかく元気満載。
僕も大声出して応援しました。
そして長男の野球。
市民大会決勝。
とうとう、トーナメント戦念願の優勝をしました!!
ここ数年、全く勝てなかった弱小チームだったので、優勝した瞬間、一同大喜び。
小学生活最後の息子にとっても、僕にとっても、今年一番の嬉しい出来事となりました。
一方で、まったりとクレーンゲームでふなっしーを狙う長女。
本当にマイペースだなぁ。
結構頑張ったのですが、残念ながら取れませんでした。
今までだったら、「とれるまで絶対帰んない」とかわがまま言っていたのですが、今回は「今日はついてないよ」と娘から切り出して早めに撤収。
だんだん、しっかりしてきました。
そんな出来事に子供の成長を感じた10月でした。
■体調を崩した10月。
一方の僕は、体調を崩した日が本当に多かった10月となりました。
普通に風邪、障害による心労、運動不足による体力低下、そもそも心筋梗塞の基礎疾患などなどなど、とにもかくにも体調を崩しがちです。
その上、気候の変化が激しかったり、就業の問題なんかが重なると、体調不良が一気に現れます。
10月は色々と重なって、体調を崩す日が多い月となってしまいました。
不具合を抱えながら、就労している状況だから致し方ないか。
とはいえ、あまり凸凹ならずペースを維持しながら上手く付き合っていかなくては、と改めて認識しました。
まだまだ先が長いからね。
■「マイペース」の大切さを感じた10月。
ということで、子供の成長を感じつつ、一方で自分のペースを上手く維持できなかった一カ月となりました。
受傷6年が過ぎましたが、いまだ自分のペースが掴み切れていない感じがします。
「マイペース」
この何気ない一言が、結構重いね。
活動レベルを上げると、必然的に障害が生じ、疲弊します。
かと言って、働かないわけにはいきません。
家族と自分の生活を支えなくてはいけないので。
そして何よりも、就労を通じて社会参加することが、一番のリハビリとも感じています。
でも「見えない」から、いまだについついオーバーランしたり、落ちたりします。
劇場型社会復帰。。。
まだ受傷後の「マイペース」がつかみ切れていないんだろうね。
もしかしたら、10年経とうが20年経とうが掴み切れないのかもしれないし、
もしかしたら、受傷していなくても、掴めないものなのかもしれないですね。。。
深く考えずに時の流れに身を任せるのも、それも一つの「マイペース」ですね。
人生なんてそんなもんか。
同じ当事者の方々は、どんな「マイペース」を持っているんでしょう。
ぜひ、色々な当事者の「マイペース」を、聴いてみたいですね。
他の人がこうしているから、自分もこうしよう というようには捉えないけど、でも新しい自分創りを経験した方の話は、きっと参考になると感じます。
話は変わりますが先日、久しぶりに恩師より連絡があり、色々とアドバイスを受けておりました。
僕にはスターウォーズの「マスターヨーダ」みたいな恩師がいて、なぜか苦境に陥ると、状況を見計らったかのように連絡が来ます。
そしてずばり一言。
「人間って目標を失った時に弱くなるんだよね。」
就業においても、私生活においても、今の僕はまだ「目標」を見失っている状況。
子供たちよりも、目標を見失っているのかも。
そして、失った「目標」を創りなおすのが難しいのが、この見えない障害の特徴でもあるのかな。
これから自分は、どんな目標をみつけていくのか。
そして皆さんは、どんな目標をみつけてきたんでしょうか。
新しい目標を持つことは、決して不可能じゃないよね。
そんなことを真剣に考えさせられた、10月でした。
10月に入りました。
台風が来たり暑かったり涼しかったり、気候の変動が大きくて少し体が驚いております。
そんな秋真っ盛りの中、3人の子供たちの運動会が先月末より行われました。
僕が倒れた時は、まだ幼稚園児だった長男。
もう小学6年生です。
同じく僕が倒れた時は、幼稚園児だった長女は5年生。
運動会の行進曲でみんなを元気づけてくれました。
そして、僕が倒れた時にお腹の中にいた次女。
早いもので、幼児園年長になりました。組み体操も直立3段タワー。とても幼稚園生とは思えません。
一番上が次女。
どんな小学生になることやら。。。
子供の成長は本当に早いですね。
毎日一緒に過ごしていると、以外に気づかないものです。
そのうえ、物理的に記憶が良くはないので、なおさら認識できなかったりします。
でも、こうやって年次の一大イベントや大舞台で、外から我が子の成長を見ると、不思議と成長を強く感じることができます。
これは普通の人でも同じだと思うけど、それがより顕著に感じられるのも障害特性なのかな。
まだらだけど、強い印象は、強く残るものです。
そんな感じで、今年の秋の体育会系イベントは無事に終了しました。
来年から長男は中学生。
そして次女は新一年生。
あと6年くらいは、運動会の場所取りと写真取りで、父親の威厳を保てそうです。
]]>ここ数週間、暑いのやら涼しいのやら、天候の変動が大きい日々が続いてますね。
僕の体は悲鳴を上げていたのですが、この3連休、東京は穏やかな天気でした。
東京都言語聴覚士会主催 言語聴覚の日講演会 当事者が体験を語る「いまを生きる」ⅴ
~高次脳機能障害とともに歩む~
・社会復帰と障害認識
・リハビリ再開と自己意識の改革
・自分を取り戻すために
緊張していることを先に告りつつ、無事に40分間登壇してきました。
お盆休みを使って資料作りをしてたのですが、発表直前までぎりぎり資料をいじってました。納期ぎりぎりで恐縮です。2番目に登壇された、脳内出血のIさん。
MRの写真、ものすごい出血でしたね。
最後に登壇された、Kさん。
初めての登壇ということで、とても緊張されたと思いますが、最後まで壮絶な歩みをご自身で語られ、そしてこれからも立ち向かう姿に、心を動かされました。
当事者が自分のことを語る姿は、どんな姿でも勇気をもらいます。
最後まで共感しながら、拝聴させていただきました。
この機会を頂いた、都士会ならびに関係者の皆様ありがとうございました。
また、座長をお勤めいただき温かいまなざしで最後まで演者にエールを送っていただいた、半田会長に改めて御礼申し上げます。
帰りがけ、言語聴覚士であり神戸大の客員教授であり当事者でもある、関先生とお話しする事ができました。「働く世代の当事者を応援することをしたい」とお話しさせていただいたところ、色々とご助言を頂くことができました。遅ればせながら、先ほどアマゾンから書籍届きましたので読了させて頂きます。
講演をするたびに思うのですが、自分の頭の中がぐっと整理されます。
身内で自分の話をするのとは違い、第三者の前で発表すること、資料に落とす・形にする事で、自身の障害を振り返って俯瞰で見ることができます。
私も3年前、わずか数名の家族会メンバーの前で発表したのが始まりでした。
病状が落ち着いてきた段階で、家族会等でスライド数枚で発表するのもありだと思うし、そういう場が増えると、障害と向き合える方が増えるんじゃないかと思います。
こんな感じで、ひさしぶりの講演を無事に終えることができました。
演者の皆様、関係者の皆様、ご来場いただいた皆様、とりあえずお疲れさまでした!
]]>先週、お盆休みを使って実家に帰省をしてきました。
毎年、正月と盆は顔を出すようにしてるのですが、この時期の帰省は心がざわつきます。
なぜなら、僕は6年前のお盆帰省時に、実家で倒れたから。。。
でも不思議と6年という歳月がそのざわつきも軽減してくれて、疲れはしたものの楽しませてもらいました。
釣りをしたり(40cmのボラ釣りました)。
ぶどう狩りに行ったり。
花火をしたり。
そして今日8月19日は、4日間の意識不明から蘇った、僕の2度目の誕生日だったりします。
眼が開いたかと思うと、すぐに眠りについて。
また眼が開いたかと思うと、また眠りについて。
家族の話によると、ドラマのようにハッと目覚めたわけではなく、徐々に目覚めたとのこと。
そして片言で話し始める。
「ここはだれ、私はどこ?」
そんなことを言ったかは定かではないですが、状況的にはそんな感じだったらしい。
その後、意識回復時の錯乱を起こしてしまい、鼻とか点滴とか尿管とか色々な管を自分で抜いて、ICUから脱走。それを見た主治医が一言。
「とりあえず身体(運動器)には障害が残らなさそうだね」と。。。
あれから丸6年。
帰省の際に、久しぶりに救急搬送された病院を訪れました。
リハ室。
毎日、車椅子で行ってたんだよ。
泣けるなー。
不思議とここは、生まれ故郷みたいな感じがしてなりません。
退院する時は「2度とお世話になるもんか(笑)」なんて豪語していたのですが。
リハの先生にも会って、元気な姿を見せてきました。
当時、妻のお腹の中にいた5歳の娘も一緒に。
6年前、すべてはこのリハ室から、自分を取り戻すことをしてきました。
「初心忘るべからず」
帰省とはそもそも、そういう意味合いなのかもしれませんね。
そんなことを改めて感じた、受傷後6年の帰郷ではない帰省となりました。