障害の受容って? ~正解から納得解へ~ [高次脳_障害の認知・受容]
暑い日が続くようになりました。
東海地方まで梅雨明けしたので、 関東地方ももうすぐ梅雨明けか。
すでに気分は夏モード。
ポロシャツで通勤。
今日のランチは沖縄料理。
屋外プールも、屋外ビール!?も、
すでにデビューしました。。。
そして夏といえば高校野球。
長男が野球をやっていることもあり、必然的に見るようになりました。
地区予選が佳境で、こちらもかなり暑い状況に。
僕のところは西東京地区。
先日、今話題の早実・清宮君を見に行きました。
夏の青空にスカッと本塁打。
実のことを言うと、どっちが勝ったとかは覚えられても、何対何で勝ったとか詳細までは覚えられなかったりします。
かたや細かいことは覚えられなくても、印象の大きいことや興味があることは記憶として残りやすいので、なんとなく強引につなげて後はテレビやネットのニュースで振り返り&ストーリーを補完。
これで自分を納得させています。
受傷後丸8年が経ちますが、今の僕の日常ってこんな感じで、この日常的に記憶が悪い状況にだいぶ慣れてきた感じがあります。
先日の、脳損傷ケアリングコミュニティ学会の講演後に、長谷川大会長とこんな会話を交わしました。
うろ覚えかもしれませんが。。。
大会長「どのタイミグで障害受容したと思ってる?」
僕「正直、今でも100%受容したと確信が持てないです。毎年その時は受容したと思っていても、そこから時間が経つと「あの頃思い返すとまだまだだったな」と思うことが多々あり、いつまでたっても100%受容したとは思えないです。そこに脳損傷の辛さがある一方、考えるときりがないので、最近はあまりこだわらないようにしてます」
大会長「何人も患者さん診てるけど、みなさんそう感じてると思うよ」
・・・どうやら割り切りも重要のようです。
時を同じくして、会社の講演会で「納得解」という考え方を教わりました。
今までは「正解(正しい答え)」や「最適解(ベストな答え)」というのが求められていたけど、多様な価値観が尊重されるこれからの時代、他人の引いた指標に合わせるのではなく、答えが正しかろうが正しくなかろうが自分が導き出した答え =「納得解」に一番意義がある、というここ数年でビジネスや教育、ワークショップ等の分野で急速に浸透し始めてきた考え方です。
受傷8年が経った今の自分の考えは、これに近いかと。
障害と歩むのに、「正解(正しい答え)」や「最適解(ベストな答え)」 なんてものは、そもそもないと最近思うようになりました。
記憶が悪くても、段取りが悪くても、話の筋道が立てられなくとも、先読みできなくとも、
悪いなりに自分で決めた「解」に意義があり、50万人いたら50万人の「解」があると感じます。
「解を求めない」「時の流れに任せる」というのも、一つの「解」だと思います。
それを引き出してあげる支援や、多様な解や価値観が否定されない環境があって、当事者は障害を受け入れることができるようになり、ついては共生社会につながるかと思います。
正解や最適解を追い求めない人生の歩み方を当事者が始めた時、それが受容の始まりかもしれないですね。
そう感じる今日この頃です。
受傷後8年。
障害者雇用に切り替えてちょうど丸1年。
父親が亡くなり2ヶ月が経ちました。
ちょっと自分の人生の歩み方に変化が起きている、そんな気がする梅雨明け前の心境でした。
甘くもないけど追い風も感じる障害者雇用 ~東京障害者職業センターでの講演を通じて~ [高次脳_講演・社会活動]
どちらかというと気合で。
結果、大変貴重かつ切実なお話を聞く事ができました。
すでに採用を試みている企業側の声として多かったように思います。
・身体と高次の方を組み合わせて、1ペアとして対応。本人の受容がなされていれば、管理作業は身体、手作業は高次で対応可能。
・別の精神障害の方がトレーナー(ピアカウンセリング的な発想)として対応。
これは採用側の本音だと。。。
なぜなら、高次脳機能障害だけを見てるわけではなく、様々な障害や病気に対応されているわけなので。。。
これだと、画一的に「雇いなさい」という制度よりも、各企業にサポーターが増えることで、社会全体で捉えたときに障害者への理解者が増えることになります。
どこまで浸透するかはわかりませんが、確実に一歩進んだかと。
いや、この流れを絶やさないようにしたいですね。