帰省をしてきました~受傷から6年が経ちました~ [高次脳_ふと感じたこと]
先週、お盆休みを使って実家に帰省をしてきました。
毎年、正月と盆は顔を出すようにしてるのですが、この時期の帰省は心がざわつきます。
なぜなら、僕は6年前のお盆帰省時に、実家で倒れたから。。。
でも不思議と6年という歳月がそのざわつきも軽減してくれて、疲れはしたものの楽しませてもらいました。
釣りをしたり(40cmのボラ釣りました)。
ぶどう狩りに行ったり。
花火をしたり。
そして今日8月19日は、4日間の意識不明から蘇った、僕の2度目の誕生日だったりします。
眼が開いたかと思うと、すぐに眠りについて。
また眼が開いたかと思うと、また眠りについて。
家族の話によると、ドラマのようにハッと目覚めたわけではなく、徐々に目覚めたとのこと。
そして片言で話し始める。
「ここはだれ、私はどこ?」
そんなことを言ったかは定かではないですが、状況的にはそんな感じだったらしい。
その後、意識回復時の錯乱を起こしてしまい、鼻とか点滴とか尿管とか色々な管を自分で抜いて、ICUから脱走。それを見た主治医が一言。
「とりあえず身体(運動器)には障害が残らなさそうだね」と。。。
あれから丸6年。
帰省の際に、久しぶりに救急搬送された病院を訪れました。
リハ室。
毎日、車椅子で行ってたんだよ。
泣けるなー。
不思議とここは、生まれ故郷みたいな感じがしてなりません。
退院する時は「2度とお世話になるもんか(笑)」なんて豪語していたのですが。
リハの先生にも会って、元気な姿を見せてきました。
当時、妻のお腹の中にいた5歳の娘も一緒に。
6年前、すべてはこのリハ室から、自分を取り戻すことをしてきました。
「初心忘るべからず」
帰省とはそもそも、そういう意味合いなのかもしれませんね。
そんなことを改めて感じた、受傷後6年の帰郷ではない帰省となりました。
障害者総合支援法ご存知ですか? [高次脳_ふと感じたこと]
ご存知の方もいるとは思いますが、「制度のことはわからんよ」と思ってるあなたもこの機会にぜひ。僕も先日、患者会の方に教えていただき改めて認識しました。
「障害者総合支援法」とは
それまでの「障害者自立支援法」から改正された、障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律で、平成24年に閣議決定され、翌25年から施行されました。詳しいことは「厚生労働省ホームページ」で(汗)
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/shougaishahukushi/sougoushien/こっちのほうがわかりやすいかな。
独立行政法人福祉医療機構 WAM NET
いくつか変更ポイントがあるのですが、最大のポイントは、基本理念が新たに規定されたことです。どんな理念かというと、「共生社会の実現」が新たに基本理念として定められました。
この法律の基本理念を、障害者及び障害児が日常生活又は社会生活を営むための支援は、全ての国民が、障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのっとり、全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため、全ての障害者及び障害児が可能な限りその身近な場所において必要な日常生活又は社会生活を営むための支援を受けられることにより社会参加の機会が確保されること及びどこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないこと並びに障害者及び障害児にとって日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものの除去に資することを旨として、総合的かつ計画的に行わなければならないこととするものとすること。(第一条の二関係)
その背景には、これまで障害とは「その人個人が授かった“医学モデル”」で考えられてきた歴史があるのですが、「そもそも障害を産むのは社会(環境)とのギャップである“社会モデル”」に、考えがシフトしてきたことがあげられるとのことです。
なるほど。
「障害者」という人間なんて、そもそもいないからね。
ハンディキャップを負って社会生活上支援が必要な方を、行政対応上「障害者」と定めているだけであって、ソモソモワレワレはタマタマカラダにハンディキャップを授かった、みなさんと同じ一人の「人間」です。
至極当たり前の話に見えますが、現実的には、まだまだ臭いものには蓋をする文化が強く根付いている日本。
私もいろんな方と出会いましたが、対等に渡り合ってくれる方もいれば、排除を意図的にしようとする、もしくは臭いものだとタグ付けする心の狭い方もいらっしゃいます。。。
個人の感想ですが、これは「障害者支援に関する大転換」であり、そして社会一般の「“障害”に対する規制概念の変更」と感じます。
インフラ・福祉サービスの拡充や保障の拡充も良いことだと思いますが、それ以上に目指すべき方向性(基本理念・ビジョン)を時代に合わせて再規定するという動きが明確に見えます。
前者を対処療法とするならば、後者は課題解決思考。
この「障害者総合支援法」には、社会の根本課題を変えるというビジョンが汲み取れます。
これを、単なる行政の「お達し」と捉えるか、「歴史上の大転換」と捉えて社会認識の変更に繋げるか、当事者・支援者自身の視点や行動にかかっているかと。
「生きづらい・働きづらいな」と感じることをどんどん当事者側からも発信して、ぜひ後者の視点で、社会の視点を少しでも変えることに注力していきたいですね。
ワレワレとワレワレの次の世代のためにも。
本法律は、年度毎に3段階を経て推進されていく予定。
現在、第2段階に突入し、2016年4月には第3段階目の改定に入ります。
全員参加型の共生社会になるか、参加する全員の志にかかっていると思います。
障壁のない社会を目指して ~杜のマルシェに参加してきました~ [高次脳_ふと感じたこと]
週末、東京都調布市にある「杜のハーモニー♪」さんのイベント「杜のマルシェ♪」にお伺いさせていただきました。
3月の低酸素脳症(蘇生後脳症)の講演会に参加したのがきっかけで、代表のI様よりお誘いいただいて初参加。ご令嬢さまのIさんは、私と同じく低酸素脳症の当事者です。
場所は調布市にある深大寺のそばのギャラリー。
この付近に行くのは初めてだったのですが、何とも緑が深く神秘的なところですね。
正直に言いますが、私は勘違いしておりました。
てっきり、当事者の方々の作品販売会かと思ってましたがそうではありません。もちろん作業所で作られた作品もありましたが、地元の一般の方やプロアーティストの方の作品も、一緒に陳列してあります。
陶芸作品や、アクセサリー、絵画、写真、日用雑貨などなどなど。
「障害のある方もない方もそれぞれがその人らしさを出し合い、それぞれが心地よいハーモニーを奏でること」を会のビジョンとしており、障害のある方もない方も共生する社会を目指し、あえて混在して地域の方々の作品展示を行っているそうです。
この調布の杜の中で。
大変素晴らしいビジョンですね。
そんな杜のマルシェの様子をちょっと紹介。
アクセサリー・WEBデザイナーで、Iさんの回復期にリハビリで支援されていたYさん。
写真を取り忘れてしまいましたが、素敵なアクセサリー作品を展示されてました。
そして何よりも、Iさんと気さくに、そして普通に接している姿がとても印象的でした。
そして、そのYさんの旦那さん。木版画家。
木版画家というご職業にも驚きですが、スマホで見せていただいた作品は、とても木版画とは思えない精巧さで、一同驚いてました。
サイトをご紹介させて頂きます。
http://www.agnahue.com/index.htm
ぜひ世界に、日本の木版画の素晴らしさを伝えてくださいね。
あと、散策してる時にふと訪れたという、会とは全く関係ないアメリカ人のテリーさん。
片言の英語で私も少しお話ししましたが、劇団に所属しているそうです。
http://www.t-in-p.com/1246212515125211252212540.html
個人的に、progressという単語が好きです。前向きになりますね。
紹介しきれませんが、障害の有無に関係なく、いろんな方がふと訪ねて普通に声を掛け合い、普通に寄り添っている、何とも自然な時間を過ごすことができました。
当の私は、ちょっと緊張もあり最初はぼーっとしてたのですが(低酸素の人はスイッチ入るまでちょっと時間かかります)、そのうち皆さんが声をかけてくれてあっという間に終わりの時間に。
この小さな調布の杜のギャラリーで、バリア(障壁)のない世界というのを体感させていただいた、そんな今回の会でした。
こういう機会は、ぜひ広がってほしいですね。
もしかしたら私が知らないだけで、すでにあるのかもしれません。
今後、いろんな会にも参加してみようと思います。
会の終わり際、わざわざ駆けつけていただいた当事者のSさん。昨年の事故で40mほどトラックに引きずられて一命を取り留めたのですが、一度、職場復帰したものの現在では少しトレーニングが必要ということで、支援センターでトレーニングをされているとのことです。
会が終わった後に、4時間ほどファミレスでお話ししました。とても探究心がおありで、すでに色々と高次のことを勉強されています。そして資格取得も目指し、これからまだまだ頑張るそうです。
その自発性を僕にも分けてほしい、ぜひお願いします。
最後にそのSさんに駅まで送ってもらったのですが、なんと、私自身がSさんの車中に購入した商品を忘れてしまいました。。。僕は忘れたこと自体も覚えてなく、わざわざお電話を頂き発覚。しばらく預かっていただけるとのこと。
僕も、高次脳全開ですね。
でも、お互いがこうやって声を掛け合って補えばいいんですよ。
ちなみに、いまの政権が標榜している社会スタイルに、「共生社会」というコンセプトがあります。
「どんな社会?」とずっと思っていたのですが、今回の機会で「こういうのが共生社会っていうんだろうな」とふと感じました。
そんなことまで、最後の最後に身を持って気付かせてくれた、有意義な一日となりました。
余談ですが、次回は、みなさんと一緒にカラオケに行く予定。
CD借りて練習しておきますね。
※当事者の詩集より。見ているだけで力が湧いてきます。
梅雨の夏空 [高次脳_ふと感じたこと]
梅雨の時期に入りましたね。
脳にダメージを受けた方は、気圧の変動に弱い傾向にあると、とある医師から聞きました。
本当かどうかはわかりませんが、普通の人でもこの時期は憂鬱な気分になるから仕方ないか。
頑張って仕事には行ってますが、
なんだか憂鬱。
でも、先週末はそんな気分を忘れさせてくれるような天気でした。
土曜日、授業参観日。
グランドで、子供の体育の授業を見てきました。
いい天気の中、走り高跳びを飛んでました。
日曜日は長男の野球。
地域のちょっとしたトーナメント戦の決勝戦でした。
結果は逆転負け。。。
息子は泣いてました。
自分の子供の悔し涙を見ること以上に、親の心を動かすものはないなと感じます。
敢闘賞を贈るよ。
さて、今週末は、半年ぶりくらいに会う当事者の方との情報交換会。
みんな苦戦しながらも、ぎりぎりのところでなんとか就労をつないでいます。
そんな就労上の悩みや課題を、少しでも解消できるよう、情報交換したり生存確認したり相互鼓舞したり。
私同様、身体障害がない高次脳機能障害の方で就業している方は、身体のある方とは異なる課題があります。
見えないという、人間の性。
先日、会社の先輩と飲んでいるときに言われました。
「(僕のは)見た目普通だから、相当きつそうだよね」
自身、就労していて感じます。
中には理解をしてくれる心の広い方もいるのですが、残念ながらそうではない方もいるし、さらにハンディキャップを上げ足を取るように叱責する心の狭い方もいます。
自分がハンディキャップを負って一番感じるのは、人間にはいろんな方々がいて、この人信頼できる方かそうではない方か、結構直感でわかるようになったこと。
ハンディキャップを負うと、見えない才能が開眼するみたいです。
そりゃそうだよね。
なぜなら、あたりまえの機能が無くなると、悪戯なことを考える余裕すらなくなるから。
われら高次脳、駆け引きしたり塩梅をうまく調整するのが苦手な直球人間が多いです。
それゆえに、就労上のトラブルも多かったりするのですが。。。でも基本まっすぐ。
人間、窮地に追い込まれたときに、進化と真価を問われるのです。
そう自分に言い聞かせて、自分を精一杯コントロールしてます。
なんか、悟りの世界みたいなコメント書いてしまいました。
ちなみに、自分は何宗なのかも覚えてなかったりします。
最後に、先週末の近所のお寺の写真を。
本当に梅雨?
どうみても夏空でしょう。
つながりとしあわせ。 [高次脳_ふと感じたこと]
ゴールデンウィーク終わっちゃいましたね。。。
みなさんいかが過ごされましたか?
僕は、有給を使えば夢の11連休もありえたんですが、1日だけお休みをいただいて後はカレンダー通りでした。
特に旅行に行ったとか遠出をしたとかもなく、普通にまったりと。
時間があれば何かするだろうとも思っていましたが、予定が無いとごろごろしちゃいます。
これが障害特有の自発性低下なのか、普通のおじさまでもあり得ることなのか、区別はつきませんが。。。
そんな中、高次に関する機会があったので書きますね。
GW中、日々コウジ中の柴本さん(知ってますよね?)と親交のある方々とで集まる機会があったので、参加させていただきました。
基本は家族会なのですが、今回は当事者の方も参加。
我が家も夫婦で。
その中で、夫婦で参加されていたKさん(旦那さん当事者)は、私と同い年で子供も同じ小6野球少年。
受傷時期や発症原因は違うのですが、社会復帰で相当な苦戦を強いられているところはお互い共通。病前バリバリサラリーマンだったとこも。
初めて会うのに結構話しこんでしまって、気づいたらあっという間に5時間くらいたってました。お互い落ち着いたらバーベキューやりましょうね。
あと情報を色々お持ちでとても洞察力が高い当事者のNさん、的確な助言をいつもありがとうございます。
そしてグループリハで一緒だったEさんの奥さん。Eさん本人は療養中で来れませんでしたが、教えていただいた新宿の鶏ガラとんこつラーメン屋、いつか行きましょう。行っても奥さんには内緒にしておきますから。。。
今回、新たな発見がありました。
当事者のパートナーや家族も同席していると、以外に話がスムーズに進み、有意義に話せることが大いにわかりました。当事者だけだと、上手くコミュニケーションが取れないこともあるからね。おまけに翌日話した内容を、「昨日こういう話したよね」と振り返って、記憶のインプットミスや自身の認識ギャップの修正ができます。
皆さんとお話しできる機会を頂き、改めて御礼申し上げます。
そして数日後、同じ高次の当事者4人で飲んでいたりもしてます。
これはこれでお酒の力も借りてがっつりと。
たまには、お互い生存確認をしながら鼓舞しあわないと、僕ら生きていけません。
こういうのも、僕にとっては丸必です。
受傷後、もうちょっとで丸6年。
最近とても感じることがあります。
「つながり」がとても重要なのではないかと。
医療〜社会保障、当事者〜支援者・周囲のネットワーク、就業環境〜社会認識の改善などなどなど、高次脳機能障害を取り巻く環境には、未だ課題満載かつ複雑に絡み合っていて、当事者を苦しめています。
そんな中、お互いの知恵や工夫を共有したり、たまには鼓舞したり励まし合ったりと、当事者・支援者同士できることはまだまだ多く、「つながり」を厚くすることが重要なんだなと、改めて切に感じたゴールデンウィークでした。
ところでみなさん、中島みゆきさんの「糸」という歌を知っていますか?
ミスチルの桜井さんもカバーしているこの曲。
僕は受傷後にこの曲を知ったのですが、とても好きだったりします。
美しい日本語の歌詞ですね。
歌の最後に、「仕合せ」という言葉がでてきます。
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かの
傷をかばうかもしれない
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます
とあるブログから、歌詞の真意を引用させていただきました。
“「仕合わせ」とは国語の辞書によりますと、「運命の巡り合わせ」という意味なのだそうです。そしていわゆる「幸せ」という言葉とは基本的に意味が異なりますが、みゆきさんはこの2つの言葉を上手に「繋い」でこの「糸」という曲をお書きになったのだと、その深い歌詞の意味を感じ取りました。みなさんは「仕合わせ」と呼べる「幸せ」に巡り逢ったことはございますか?・・・”
僕にとって、今の当事者・支援者・医療者との「つながり」は、縦の糸、横の糸のようなもの。
そして織りなす布は いつか誰かの傷をかばい、
「しあわせ」となるのでしょう。
気になる方は、ぜひ検索してみてくださいね。
体感記憶呼び起こし作戦。 [高次脳_ふと感じたこと]
正月明けの3連休、
突如、家族で日帰りスキーに行くことになりました。
きっかけは、今週から始まる次女の幼稚園スキー合宿。
5歳なのに、この連休明けから3泊4日のスキー合宿です。
ちなみに親は同伴しません。
すごい幼稚園でしょ。
妻がふと、「合宿の前に一度連れて行ってあげたかったなぁ」と。
そういえば、僕も昔は良くスキーに行ってたなぁ。。。
この「妻の過去形残念感」+「そういえば昔よく行っていたな想起」が重なって、僕の自発スイッチが入りました。
行こう。
思い立ったが吉日。
とにかく、「行けば何かが湧いてくるだろう」という想いに駆られました。
ちなみに僕は記憶喪失もあるので、いざ準備を始めると「道具はあるのかな、いつ頃まで行っていたのかな、どこに行ってたんだろう、そもそも何揃えればいいんだ?ウエアは?中は何を着るんだっけ??ブーツは履けるか??板は履けるか??リフトは乗れるか??滑れるか???」と???だらけ。
そこは妻のサポートも借りながら、なんとか事前準備は完了。
そしてスキー場に到着。
10数年前に買った板を置く。
ストックを持つ。
ビンディングにブーツを装着。
そしてリフトに。
なんでリフトごときにこんな緊張するんだよ。
でも乗れたよ。
今度は降りるよ。
ここでこけるとリフトが止まる。
さらに緊張しましたが無事に降りました。
そしていざ、受傷後初滑り。
最初はスーパーボーゲンから始めましたが、すぐにパラレルに。
「身体が覚えてる」
これが第一感想です。
そしてそのまま、我が子のことも忘れながら無我夢中で何本か滑りました。
「そうそう、この感覚」
風を切って斜面を下りる爽快感。
今まで眠っていた何かが呼び起こされる感覚が、脳をよぎります。
というか、湧いてくる。
この湧いてくる感覚は、
たぶん記憶をなくした人にしかわからないと思う。
こうして、無事に一つ記憶を呼び戻すことができました。
15年前くらいのリフト券。
98年とか平成13年。。。
覚えてないなぁ。
いわっぱら???あらい?????
「こんなとこ行ってた・・これ何県??」というのが正直なところ。
普通の人でも10数年たてば覚えていないこともあると思いますが、自然忘却と区別がつかないのもこの障害の辛いところ。
そこはもうしょうがない。
なにせデジカメデータがあるのは2000年以降であり、当時の写真もない状況なので明確に思い出せません。
こうやってリフト券もあるので、間違いなく十数年前は年10本ぐらいスキー場に行っていたようです(妻証言)。
でも身体が覚えていました。
やっぱり身体を動かすのはいいね。
頭がすっきりします。
子供もまた行きたいと。
またも、思い立ったが吉日。
さっそく、信州スノーキッズクラブに会員登録してしまいました。
今回、思わぬタイミングで、体感記憶の呼び起こしから自発性の向上まで繋げることができました。
この記事を書きながら、ただいま「スキー後筋肉痛」の記憶も蘇ってきている状態。
受傷後の冬シーズンの新たな楽しみが一つ増えそうです。
障害が生じることを伝えて働くこととは? [高次脳_ふと感じたこと]
※あくまでも軽度当事者の主観です。
自分の就労の話。
現在、受傷後3社目なのですが、就労上、障害が発生することを伝えて就労してます。
自身、生死をさまよった状況からの回復だったので、問答無用で、復職先にその旨を伝えた上での復職となりました。
当時は今よりもひどい症状でしたが、それでも僕は「早く仕事に戻せ」と豪語していたとのこと。
本当に、見えない障害ですね。
その意欲もあり、受傷4カ月後という早い段階(これが早いのかどうかはわかりませんが・・・)で復職しました。
徐々に出社日を増やし、受傷7カ月後には形上の通常勤務(残業なし、出張なし)に。
そして、さらに制限を外し業務負荷を増やしていったんですが、通常勤務1年後に会社を飛び出してしまいました。
理由は、負荷増+脳機能が回復するに従い、あまりにも受傷前と違う自分に気づいたからです。
本格就労してからじわじわと気づくんだから、さすがにパニくります。
決して、難しいことをしていたわけではありません。
スケジュール、単純なやり取り、ほうれんそうでのミス多発。
とにかく辛かったですね。
事前に見えてれば、まだ手の打ちようというのもあるんですが、当時はほとんどお手上げ状態でした。
そして会社を飛び出す。
2社目に転職する際には、同じ島(スタッフ)で働く方には転職前にお伝えしました。
ただ見た目普通だから、あまり問題視されていなかったと感じます。
実際に働いて、ものの数カ月(いや数日)で問題が多発。
前社同様に、スケジュールや、打ち合わせや、業務自体の遂行で。
加えて、不具合が生じることを伝えていない「外部機関とのやりとり」が業務上増加したことも重なりました。
なにせ、外部機関からすると、こっちに不具合があるなんてわからないからね。
僕の場合、身体には不具合がないので、見た目普通のおじ様!?です。
なので、がんがん本気でクレームが入ります。
そこは慈善事業ではなく、仕事なので。
そしてあえなく沈。。。
3社目に転職する際には2社目の経験も踏まえ、診断書、就労見解書、臨床検査、できるできないリスト、事前3者面談を行ったうえで就労しました(もともと開示してますが、もろもろここまで揃えたのは初)。
そして現在、社内の人には就業上不具合が生じることを伝え、なるべく顕在化する業務は避けてもらっているのですが、それでも100%回避することは不可能です。
たとえば、少し離れた方や外部機関とのやり取り。
いわゆる、障害のことを伝えていない方とのコミュニケーション。
メモを多用しても、代替手段を使っても、やりとりが繁雑になってくると処理できないのが現状です。
そういう時はどうしているか?
1回きりのやり取りだったら問題ないのですが、何回もやり取りしていく必要がある相手の場合は、不具合があることを先に伝えます。
特に、顔の見えない電話でのやり取りは、内容の聞き取りや相手の様子を伺うことが難しく、「当方、電話でのやり取りに難があり、お手数ですがメールでのやり取りでお願いいたします。」と伝え、記録の残るかつワンクッションこっちが考えるペースが保てる、メールでのやり取りをお願いするようにしてます。
こう伝えれば、相手にも「ちょっと不具合がある方なんだな」というのがやんわりと伝わります。
この「やんわり」というのが結構ポイントかも。
就労上の課題を、補助具などを使って自分で対処できるのであれば、特に周囲には伝えませんが、自分一人では対応しきれない場合、やんわりと周囲に配慮を求めるようにしています。
一見、自分の評価を落としてしまうようにも見えるかもしれませんが、「見えない障害」は、そうすることによってお互いどうしたらよいかが見えるようになり、結果、円滑なコミュニケーションや就労や信頼構築につながると感じています。
周囲の配慮に100%依存するのもおこがましいのですが、一方で「ちょっとした配慮を頂くことでお互い生活しやすくなるよ」というのも、周囲の方々に理解してもらえるようになると嬉しいというのが本音です。
なによりも職場のメンバーは、就寝時間を差し引けば、家族よりも一緒に過ごす時間が多いわけだからね。
実はこうやって、少しずつ世の中に「高次サポーター」を増やしていくのが、僕の秘密作戦だったりして。
そうすれば、今就労に困っている方や、不幸にも今後受傷される方にとっても優しい社会になるよね。
いずれ、一億数千万人がサポーターになるといいな。
そうすると、僕もブログ書かなくても済むかもね。
そんなことを夢見る、11月下旬の夜でした。
情報量と高次脳。 [高次脳_ふと感じたこと]
11月ってこんなに寒かったっけ?
受傷後、とても寒がりになりました。
当然ながら、体もスリムになり肉体的に寒さに弱くなりました。
あわせて、気温の変化に過敏になるという精神的なものもあるし、脳障害なので物理的に気温変動への対応みたいなものが弱くなった感じもあります。
とにかく、ちょっと冷えただけで過剰に「寒い情報」が脳の中を駆け巡って、末梢の身体をブルブル震わせます。
情報の処理って難しいね。
先日、本が読めない(全く読めないわけではないですが、登場人物が多かったり話が複雑な本は記憶障害で苦手)のに、本屋さんに立ち寄ったら、知り合いが書いた本が置いてありました。
どうやら相当売れてるらしい。
言語リハ(ST)を受けている僕としては、本のタイトル自体も興味ありありなのですが、さらに気になるグラフを発見。
世の中の情報量は10年間で約530倍に。
総務省「平成18年度情報流通コンセンサス報告書」のグラフ。
詳細を見たい方は総務省のHPへぜひ。
一言で言うと、インターネット、IT、電子化によって、情報量が10年間で530倍に増えているということ。
10年間で530倍!?
ちなみに、厚労省が「高次脳機能障害」を本格的に研究対象として取り組み始めたのは、2001年。
一方で、このグラフによると世の中の情報量が上がり始めたのが平成13年あたり。つまり2001年。
高度医療・救急医療の進化、インフラの整備、助命率の向上など、高次脳機能障害者が物理的に増えているのは間違いないのですが、一方でこの「情報流通量の多さという社会環境」が、高次脳機能障害をより顕在化させていると感じます。
よくメタボ系の病気で「現代病」なんて言いますが、高次脳機能障害は「現代障害」と言ってもいいのかもしれませんね。
いずれにせよ様々な要素が重なって、現代社会における高次脳機能障害者の社会復帰が問題化・複雑化してきているんでしょう。
事実、受傷レベルが私と同程度の知人の多くが、就労上極めて苦戦しています。
あえて“極めて”とつけます。
情報社会が、障害を産むとは何たることや。
一方で、今までは声を出せなかった当事者が、世の中に情報発信できるようになったのも情報社会の恩恵。
高次に限らず、色々な病気や障害の方々の闘病ブログがたくさん世の中にはあります。
それだけではなく、障害の説明や講演会などの情報も知ることも。
情報社会が、障害との共生に役立っているのも事実。
情報って、我々にとっては両刃の剣みたいですね。
うまく情報処理ができるようになることも、うまく高次脳機能障害と付き合う一つの手段だと思っています。
事実、情報処理ツールには自身、相当こだわってます。
メモの取り方、見出しの付け方、マーカーペンの引き方、ノート使い分けなどのアナログ対応から、スケジュールの組み方、余分な情報を入れない技・アピール方法、収納方法(evernoteが結構活躍)、スマート端末(iPhone)など高度な技まで。
ここまでやっても、就業上は追いつけないのが現状。
できれば情報量が多くない環境にいたいのですが、社会と共生するには、社会の流れに合わせる必要もあり、情報処理能力がより一層求められるのも事実です。
情報量と高次脳。
非常に相性が悪い組み合わせなのですが、自分の中で、どこかで折り合いを見つけなくてはいけなく、今でもトライアンドエラーで模索してます。
模索しつつやっと5年。
まだまだ発展中です。
共生 脳を支配するもの ~5周年記事~ [高次脳_ふと感じたこと]
※この記事に自問自答していて、更新が遅くなりました。
5年たったいま、乱高下はあるものの総じて就労が上向きになってきました。
こなせることも増えてきて、それなりに残業することも。
昨年は「こなせないことが多い」と会社からダメ出しを受けましたが、
今年はなんとかドローに持ち込みたく、自分なりに奮闘しているところです。
ちょうど今、受傷5年後の各種神経心理テストを受けているのですが、相変わらず新しいことを覚える力や暗算など、主に前頭葉機能まわりは不具合を感じます。
今年のスコアがどうなっているかまだ判りませんが、今までの臨床スコアは、受傷後2-3年くらいまでが回復のピークで、そこから劇的な向上はあまりみられません。
でも就労上では、昨年(受傷後4年目)と今年(受傷後5年目)を比べると、パフォーマンスが向上しています。
自己評価だけでなく、たぶん雇用側の評価も同じ認識かと。
臨床スコアは大きく変わっていないのに、なぜ、このタイミングで就労上のパフォーマンス向上が起こるのか?
ここからは、私的な感想。
○実脳機能の向上。
確かに、脳機能の回復自体は2-3年で頭打ちのイメージがあります。
しかし、そもそも臨床スコアで評価取得できる項目自体、就労上で使う脳機能の一部や主要な部分のみを抑えているにすぎないとも思っています。
臨床スコア上には出ないけど、社会生活・就業経験の積み重ねで、検査に出ない脳機能や、残された脳機能が学習・向上していると、誠に勝手ながら感じています。
そして、失われた機能をある程度補完・代替し、複雑でない業務の、スピード・クオリティは向上してきたのを実感してます。
「それでも脳は向上する」
○自身の障害の受容。
これは、前回、前々回の記事を見てね。
ここまで自分を振り返れば、受容困難と言わる障害受容も促進されるし、100%保証できるものではないけど100%諦めることもないよ、というのは言い切れます。
「それでも脳は自分を受け入れる」
○代替手段の習得・熟達。
メモやレコーダーや速記、コミュニケーション技量、スケジュール管理、タスク管理、情報整理などなどなど、あげるときりがないのですが、いずれも毎年進化しているのを感じます。
たとえば、メモの取り方。
以前よりも、メモをとる量が少なくなってきました。もしかしたら記憶力の向上があるのかもしれませんが、それよりも、どこを記録すれば効率良くメモが取れるようになるかを習得してきた感じがしています。
効率を上げて負荷を下げれば、その分、他の作業に能力を回せます。
「それでも脳は学習する」
○支援者のマネジメントの重要さ。
高次脳機能障害は、本人が自分をマネジメントできなくなる障害なので、軌道に乗るまでは、支援者のマネジメントが極めて重要だと感じています。
ついつい負荷をかけすぎたり、過度に悩みすぎたり。
事実、今でも薄く長く、リハ介入を継続しています。
近親者への報告は感情が入りやすいですが、専門職や第三者への客観的な報告は、客観的な指摘を得ることが可能。プラス自分の客観的な振り返りにも貢献。
結果的に、安定した就労につながったと認識してます。
「それでも脳は人を頼る」
○周囲の理解の必須。
もちろん職場の方々には、「高次脳機能障害」を有しているというのは伝えてあるのですが、当初は「全般性不安障害」などの、「症候群、シンドローム」ぐらいの認識でしかなかったと感じます。
現在の就業先で2年経過したのですが、就業上関与が深い方は、たぶん「この人、サボってるんではなくて、本当に不具合があるんだな」というのをリアルに感じていただけるようになりました。
そして理解だけに留まらず、実際に就労環境の調整に対応していただき、昨年より、残された機能でこなせる業務内容へとシフト。
上向きになった主要因です。
逆に言うと、こんなブログ書いたり講演したりできても、いわゆる普通の会社で働く以上は、周囲の配慮がないと就労は円滑にはいかないと感じます。
金八先生のお言葉。
”人という漢字、人は人によって支えられている”
「それでも脳は人を信ずる」
○自信・自尊心の回復
前回、自身の振り返りや布石をザッと書きましたが、それよりはるかに多くの経験を、就業上で実体験しており、その積み重ねが自信とつながっています。
これはどの病気・障害でも共通なのかもしれませんが、自己認識機能が失われる高次脳機能障害の場合、特に再構築が難しいのも事実です。
マイペースで積み重ねること、そこを支援者がマネジメントすること、達成したことは必ず記録すること、この3つを意識してやってきました。
記録は記憶のために。
記憶は未来の自分のために。
「それでも脳はプライドを取り戻す」
私が通うグループリハの、当事者のお母さんのお話し。
息子さんは、数年前はとても手がつけられず表にも出せない状態でしたが、今年から就労が決まり安定してきたとの話を、先日伺いました。
「落ち着いた要因は?」と聞いたら、雇用先の上司や仲間がとても理解のある方で、とても良く障害のことを理解して対応を頂いているとのこと。
何よりも、「仕事に行くのが楽しい」そうです。
そして、生活全般も落ち着いてきているとのこと。
就労が安定すると、問題行動なども減ります。
なぜならば、客観的な社会的評価を得られるから。
障害を抱えても、自分の存在が社会から認められるのを感じると、上向きに転換すると信じます。
そして、
周囲も否定しなくなり、
自分自身も否定しなくなり、
そこに初めて、共生の場ができるというのを、自分も経験しました。
脳を支配するもの。
それは脳機能ではなく、
自分の想いやビジョンではないかと、
5年目にして切に感じています。
5年たって、この障害と一生共生していく自分の姿が、やっと見え始めてきました。
障害は、なかったことにはできません。
だけど、「人生半ばで病気で記憶が悪くなった一人の生活者」として社会と共生していくことは、可能であると信じます。
「それでも自分はあきらめない。」
同じ高次脳機能障害の知人達と、飲みながら良く語る言葉があります。
「ワレワレが戻る社会は二つあるわけではない。戻る社会は一つである」
障害を認識するきっかけ「受容」 ~5周年記事~ [高次脳_ふと感じたこと]
※長いけど、がんばって振り返ってみたので、最後まで読んでね。
障害の「認識」には、いくつかの段階があることを、前の記事で書きました。
「認知」「理解」そして「受容」。
5年という歳月を振り返り、ざっくり意識変容の経過をステージ分けすると、上記のようになると捉えています。
今回は、3段階目の「受容」について。
「受容とは?」
受け入れて、とりこむこと。(大辞泉)
読んで字の如し。
しかし、高次脳にとってこのステージが最も難関であると感じてます。
なかなか受け入れられないんだよね。
周囲から見えないし、自分からも見えない。
周囲も期待しちゃうし、自分も期待しちゃう。
病前のキャリアもあるし、自尊心・プライドもある。
受傷時期や価値観や生活環境など、人によって様々ですが、おおむね私も含め、サラリーマンバリバリバンバン時代に受傷された方は、このキャリアの存在が障害受容を困難なものにしていると感じます。
「障害をなかったことにできる」という期待を、心の底で抱いていたと感じます。だから「こんなの自分じゃない」とか「環境変えればもっとうまくいく」なんて、半ば強引に復転職したり、あがいたり、もがいたり。
では、なぜその状況から逸し、受容することができたのか?(いまだ受容できたとは言い切れませんが)
そこにはいくつかの要因があげられます。
ひとつは、復転職を繰り返すことで、徐々に自分の障害の特性を体感で捉えるようになったこと。
いわゆるトライアンドエラー。
社会復帰後、病前のようにうまくいかないことが頻発しました。周囲からも白い目で見られ、精神的にも多大な苦痛を伴いましたが、一方で、障害への気づきや自己対処策も早く習得したと感じます。
最近は「エラーレス」という手法もあるようですが、社会と関わること自体がリハビリと捉え、あせらず、無理せず、でも0.1歩先の自分を描いて、新しい自分創りをしていくことが、障害受容につながると信じます。
失敗しても、挑戦したことは無駄にはなりません。
リハビリを継続していたことも、大きな要因と感じます。
社会復帰直前は「リハビリもう止めようか」なんてことも言っていたのですが、薄くでも継続していたことによって、結果的に、専門家による客観的継時変化の取得や、サジェッションが中長期に得られ、自分や家族では気づけない指摘を要所要所いただきました。
それだけにとどまらず、自分からの第三者への報告は、自分にとっても客観的な振り返りとして認識されます(近親者への報告は感情や愚痴が多い)。
受傷程度にもよりますが、長期支援・介入は、最終的には当事者のQOLも医療経済的にもプラスになるかと。
本人が自立できれば、パートナーが働けるし、二人で働ければさらにプラスに。
そんな状況の中、最も障害受容を促進させた出来事があります。
それは、「自分を振り返ること」でした。
それも、オフィシャルな振り返り。
受傷後、1-2年後、働けば働くほどうまくいかず訳がわからずパニック状況に。
苦戦を見かねたOTさん(ジョブコーチ兼任)から、困っている同じ境遇の患者さんにアドバイスをしたり、自分の経験を共有することで、「自分に何が起きたかを客観的に振り返ること」を勧められました。
さりげない、障害受容の促進策ですね。
これが、結果的に僕には相当効果的で、今の自分を支えています。
以下、その「自分振り返りイベント」の経緯を記載。
■2011年2月、臨床作業療法という専門誌に、当事者の寄稿欄に執筆(掲載は2011年12月号)。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2011-10-14
タイトルは「働くことが最高のリハビリ」。
おいおい。
こんな状況下でこのタイトルをつけた、自分に拍手を送りたいと思います。
たった800字の原稿を、2カ月以上かかって書きました。
というか、文章がまとめられなかったんです。当時の下書きをみると3000字以上となり、やり取りさせていただいた出版社の方からは「相当文章をまとめるに苦労されてますね」との指摘が。。。
■同じく2月、OTさんから、「病院の家族会で、その経験をお話ししてくれませんか?」と依頼され、同じく復職で苦戦している数名の当事者・家族の前でお話ししました。
このとき、初めて高次脳機能障害のスライドを作りました。
http://www.slideshare.net/asayume001/110225
たった6枚を作るのに、これも実は1-2ヶ月くらい費やす。
パワポの習得に時間がかかるのではなく、自分に何が起きていて、どうまとめたらよいのかが、わからなかったのです。土日も、ずっと家にこもって。
この時、初めて「自分は見えていないんだな」というのを、とても体感しました。
実に、就労復帰2年経過した後の話。
「見えない障害」に、本気で向き合うきっかけとなった原点。
この時に、「これは相当おかしい。真剣に向き合わなくては崩壊する」と思い、「自分に起きたことや、今の自分をまとめてみよう」というのを始めたのがこのブログ。
■2011年3月、このブログを始める。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2012-03-01
ブログ自体、病前にも経験がなく、全く初めての挑戦。嫌になったらいつでも辞めようと思いつつ、はや2年半。継続は力なり。
■2011年6月、自分を見直すために、一時仕事をお休みに。
雇用先の上司には事前に高次脳機能障害のことは伝えてあったんですが、雇用先は把握しておらず、不安定飛行になっていたので一旦休息。けじめをつける。
■2011年10月、ふとしたきっかけで、現在の雇用先に転職する機会をいただき再々就職。
今度は、医師の診断書・就業見解書・神経心理スコア・できるできないリスト・障害のパンフレット・自分の高次の特徴リストなどなどなどをオフィシャルに提出して、再トライ。
同時に、当事者会への参加や、講演活動が活発になります。
■2011年10月、南多摩障害者就労促進プロジェクトで講演。
このときのスライドはこれ。
http://www.slideshare.net/asayume001/111016-15084370
前回よりもかなり進化しているかと。参加者も医療従事者メインで50名ほど。口から心臓が出るほど緊張して、終わった後、実は病院のリハ室で横になって休ませてもらいました。
■翌2012年6月。
前回の講演がきっかけで、とある大学の作業療法専攻の学生3年生に90分講義。
40名ほど。自分が大学の講義に立つとは夢にも思いませんでした。やればできる。
このときの記事と40人の夢はこちら。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2012-06-06
■2012年10月、府中市の学習会で講演。
40名ほど。ばらつきはあるものの総じて軌道が上向きに。
このときの記事はこちら。
http://www.slideshare.net/asayume001/121104
■2013年1月、STさん向けに講演。
専門職50名ほど。このときのスライドはこれ。
http://www.slideshare.net/asayume001/s-tnet-130112
■2013年2月、かしのきひので10分ほど登壇
150名。参加者が3ケタ以上いなっても、話せるようになりました。
http://www.slideshare.net/asayume001/130224-16780752
■2013年3月、永世病院さんで回復期当事者の方に90分ほど講演。
20名ちょっと。回復期の方とお会いするのも、本当に自分にとっては大きな挑戦でした。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2013-03-17
■2013年6月
とある大学の作業療法専攻の学生3年生に90分講義
2年目突入。このときの記事と47人の夢はこちら。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2013-06-12
■2013年7月、東京都心身障害者センターで40分ほど講演。
300名。高校の軽音楽部以来の大勢の前での登壇。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2013-07-19
ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。
自分の性格上、向き合うと決めたら、とことんやろうと思うタイプの人間であり、結果、障害受容のためにプラスになると思うことは、すべて挑戦してみました。
もともと人前で話したり、企画を組み立てるのを得意としていたのですが、ここまで徹底的に自分を振り返って、オフィシャルに他人に語るようになると、さすがに自分の障害を把握できるようになってきました。そして講演する毎に、講演の規模、時間、クオリティが上がっているのを、周囲からも指摘をいただいています。
振り返るごとに、自分が正しく捉えられるようになり、見えない障害の「受容」につながったと信じています。
50万人いたら50万通りのやり方があり、こんな極端な破天荒なぶりなやり方が、到底、万人に当てはまるとも思えないのですが、でも、「自分を客観的に振り返ること」は、受容に大きく結び付くと感じます。
そして、一人で孤軍奮闘見に行くには余りにも負荷が大きいので、その状況を周囲が理解して、応援してくれるようになると、負荷が分散され円滑な障害受容や社会復帰につながると思います。
だから、周囲や支援者の理解が必要な障害なのです。。。
講演の際に、必ず言うことがあります。
ワレワレは社会復帰がエンドポイントではなく、社会との共生がエンドポイントである。
ワレワレは障害者である前に、一生活者であり人である。
障害の受容は、とても多くの困難やハードルを乗り越えながら達成されると感じます。
ニューヨーク大、Rusk前頭葉プログラムというのがあるのですが、そこには、当事者はエベレストの頂上を目指すぐらいの覚悟にコミットすべきであると記載されています。
実際、軽度だから復帰できたというよりも、本当は相当な困難とそれを乗り越えるための工夫を、たくさん経験してきたから、今の自分があると感じてます。
ここまで記事を書ききるだけのことは、一通り経験してきました。
逆に、僕の当事者仲間にも同じように乗り越えてきた同士も結構います。
ぜひ周囲の方は、当事者本人のこの状況を理解していただき、新しい自分創りを応援してくれると、お互い気持のよい社会環境になると思います。
ここまで来ると、その先の「共生」という、エンドポイントが視野に入ってきました。
では次回は、「共生」について。