体感記憶呼び起こし作戦。 [高次脳_ふと感じたこと]
正月明けの3連休、
突如、家族で日帰りスキーに行くことになりました。
きっかけは、今週から始まる次女の幼稚園スキー合宿。
5歳なのに、この連休明けから3泊4日のスキー合宿です。
ちなみに親は同伴しません。
すごい幼稚園でしょ。
妻がふと、「合宿の前に一度連れて行ってあげたかったなぁ」と。
そういえば、僕も昔は良くスキーに行ってたなぁ。。。
この「妻の過去形残念感」+「そういえば昔よく行っていたな想起」が重なって、僕の自発スイッチが入りました。
行こう。
思い立ったが吉日。
とにかく、「行けば何かが湧いてくるだろう」という想いに駆られました。
ちなみに僕は記憶喪失もあるので、いざ準備を始めると「道具はあるのかな、いつ頃まで行っていたのかな、どこに行ってたんだろう、そもそも何揃えればいいんだ?ウエアは?中は何を着るんだっけ??ブーツは履けるか??板は履けるか??リフトは乗れるか??滑れるか???」と???だらけ。
そこは妻のサポートも借りながら、なんとか事前準備は完了。
そしてスキー場に到着。
10数年前に買った板を置く。
ストックを持つ。
ビンディングにブーツを装着。
そしてリフトに。
なんでリフトごときにこんな緊張するんだよ。
でも乗れたよ。
今度は降りるよ。
ここでこけるとリフトが止まる。
さらに緊張しましたが無事に降りました。
そしていざ、受傷後初滑り。
最初はスーパーボーゲンから始めましたが、すぐにパラレルに。
「身体が覚えてる」
これが第一感想です。
そしてそのまま、我が子のことも忘れながら無我夢中で何本か滑りました。
「そうそう、この感覚」
風を切って斜面を下りる爽快感。
今まで眠っていた何かが呼び起こされる感覚が、脳をよぎります。
というか、湧いてくる。
この湧いてくる感覚は、
たぶん記憶をなくした人にしかわからないと思う。
こうして、無事に一つ記憶を呼び戻すことができました。
15年前くらいのリフト券。
98年とか平成13年。。。
覚えてないなぁ。
いわっぱら???あらい?????
「こんなとこ行ってた・・これ何県??」というのが正直なところ。
普通の人でも10数年たてば覚えていないこともあると思いますが、自然忘却と区別がつかないのもこの障害の辛いところ。
そこはもうしょうがない。
なにせデジカメデータがあるのは2000年以降であり、当時の写真もない状況なので明確に思い出せません。
こうやってリフト券もあるので、間違いなく十数年前は年10本ぐらいスキー場に行っていたようです(妻証言)。
でも身体が覚えていました。
やっぱり身体を動かすのはいいね。
頭がすっきりします。
子供もまた行きたいと。
またも、思い立ったが吉日。
さっそく、信州スノーキッズクラブに会員登録してしまいました。
今回、思わぬタイミングで、体感記憶の呼び起こしから自発性の向上まで繋げることができました。
この記事を書きながら、ただいま「スキー後筋肉痛」の記憶も蘇ってきている状態。
受傷後の冬シーズンの新たな楽しみが一つ増えそうです。
あけましておめでとうございます. [日常のこと]
3が日過ぎて恐縮ですが、改めましてあけましておめでとうございます。
実家に帰省をし、色々と出歩いていました。
今年は、元旦にグラウンド・ゴルフに行きました。
僕の1ホール目。
パー3
いきなりホールインワン。
昨年も正月ボーリングでターキーを出したので、正月球技には強いらしい。
出だしから幸運。
そして息子と将棋。
初めて本気勝負で負けました。
当然、高次で将棋を指すこと自体かなり不具合を感じるのですが、それでも子供が小さいこともあり、昨年までは子供に勝っていました。
子供の成長を感じたひとこま。
病後初のジェットコースター。
受傷後、心臓の不安もあり控えていましたが、これに乗れば今年は何か変わるんじゃないかと血迷って乗ってみました。
うん恐い。
頭の中で、脳が少し動いた気がします。
サンタさんから貰った自転車で、近くの神社に初詣に向かう次女。
走り初め。
そして神社でおみくじ。
末吉。。。
「自由にとび歩行く様に苦しみを逃れて楽しみ多き身となる。世の為人の為に尽くすならば幸福まして名も上がるべし」らしい。
今年はどんな年になるのやら。
受傷後丸6年を迎える今年は、まずは自分自身の就業状況を安定させ、その上でおみくじで出たとおり、世の為人の為に尽くすことで、さらなる1歩を感じる1年にしたいと思ってます。
そして、不器用ながらも前に歩む姿を、綴っていきたいと思います。
それでは、今年も宜しくお願いします!
2013年 総括 [ラップアップ]
クリスマスも終わって、仕事納めもして、やっと落ち着きました
今年も残すところあとわずか。
あとは穏やかに年越しを迎えたい気分です。
2013年、思い返すと色々とありました。
良いところ、悪いところ、微妙なところ、高次なところ。
本年、最後の記事として振り返ってみたいと思います。
■就業面
僕的には、十分取り組んだという評価。⇒○
会社的には、十分応えていないという評価。⇒×
僕個人としては、ハンディキャップを負いながらよく健闘したと感じてます。
健常な時と比べたら当然パフォーマンスは落ちてますが、でも、前年よりも確実にできることが増えているし、仕事への意気込みも上がってきています。
でも、会社的にはあまり頑張っていないという評価。
このギャップを埋めることが、高次脳機能障害者の継続就労のポイントと感じてます。
来年の最重要課題。
■家庭面
僕的にはまだまだな評価。⇒△
家族も同じ評価。⇒△
どうしても、就業維持を最優先にしている状況なので、土日は極力静養をとっています。複数のことを同時にこなせないので、子供3人と対応するのもてんやわんや。ここをなんとかしたい。
そうこうしているうちに子供と過ごせる大切な時期が過ぎてしまうからね。家事も手伝おうと思いつつ、なかなか段取り良くこなせないのがもどかしい。
同じく、来年の重要課題。
■体調面
弱いし不安定さは残るが、昨年よりかはまともに。⇒△↑
体調を崩しやすく、崩すと重くなりやすい傾向があります。でも、ここ1-2年はそれでも安定してきたか。来年は健康づくりに勤しもう。
■余暇面
もっと趣味から活動性を拡げられたはずという評価。⇒△
前述の通り、余暇に余力を回せないのが実情。あと受傷後の趣味が「これだ」というのがなかなか見つかりません。釣りが以前から好きで本年も結構頑張りましたが、もうちょっと活動的にできたんじゃないかと少し反省してます。写真は結構頑張ったかも。とにかくストレスをスカッと発散させるものを来年は見つけたいですね。
■高次に関する活動
今年は相当頑張りました。⇒○
昨年よりも、さらに頑張りましたよ。
上期は講演活動。
下期はピアサポート。当事者ネットワーク。
色々な方とお会いし、色々な話を聞くことができ、本当に自身にとってこの障害に関する実態が見えてきた気がした一年でした。
今年の年初の記事で、自分でこんなことを書いてました。
「受傷後丸5年を迎える今年は、障害と歩むペースは堅持しつつ、でも0.1歩でも前に進んでいることを、一つでも多く感じとれるような年にしたいなと思ってます。」
これは達成できたんじゃないかな。
総括○。
来年はどういう年にしたいか?
来年は、よりアクティブに、そしてリアルな面でも積極的な動きを目指したいと思ってます。
できれば双方向に。
年末、年越し蕎麦でも食べながら考えようとしよう。
2013年、つたないブログですが、お付き合いいただきありがとうございました。
軽度の高次脳機能障害を持つ3児の父親のブログですが、僕自身、こう見えても苦戦している部分も多々あり、来年も社会とのよりよい共生の在り方を模索しながら、不器用ながらも前に歩む姿を綴って行きたいと思います。
皆さまも、どうぞよいお年を。
晩秋から初冬の記憶 [日常のこと]
寒い季節がやってきましたね。
とにかく受傷後、この寒い季節が苦手になりました。
色々と億劫になってしまうんですが、一応活動していることを記録しなくては。
休日に、小5の長男が焼きそば作ってくれました。
家庭科で習ったみたいで、結構手際よく。
いいぞ息子。
どんどんそうやってママのストレスを解放するんだ。
今年もいただきました。
上野御徒町でひれ酒。
とりあえずマッチでアルコール飛ばしました。
寒くなっても野球やってます。
空がいかにも寒そうでしょ。
公園でロープピラミッド発見。
4歳次女は勝手に上り始め、ひとりで頂上に行ってしまいました。
てっぺん。
こんな感じで、寒くなってもちゃんと稼働しています。
実際は、平日の仕事で疲れちゃって、土日は動けず家から出れないことのほうが多いんだけどね。
それでも動ける範囲がだんだん広まってきた気がします。
そんな感じの晩秋から初冬の記憶。
いよいよ今年も終わりですね。
みなさん体調にはお気をつけて。。。
障害が生じることを伝えて働くこととは? [高次脳_ふと感じたこと]
※あくまでも軽度当事者の主観です。
自分の就労の話。
現在、受傷後3社目なのですが、就労上、障害が発生することを伝えて就労してます。
自身、生死をさまよった状況からの回復だったので、問答無用で、復職先にその旨を伝えた上での復職となりました。
当時は今よりもひどい症状でしたが、それでも僕は「早く仕事に戻せ」と豪語していたとのこと。
本当に、見えない障害ですね。
その意欲もあり、受傷4カ月後という早い段階(これが早いのかどうかはわかりませんが・・・)で復職しました。
徐々に出社日を増やし、受傷7カ月後には形上の通常勤務(残業なし、出張なし)に。
そして、さらに制限を外し業務負荷を増やしていったんですが、通常勤務1年後に会社を飛び出してしまいました。
理由は、負荷増+脳機能が回復するに従い、あまりにも受傷前と違う自分に気づいたからです。
本格就労してからじわじわと気づくんだから、さすがにパニくります。
決して、難しいことをしていたわけではありません。
スケジュール、単純なやり取り、ほうれんそうでのミス多発。
とにかく辛かったですね。
事前に見えてれば、まだ手の打ちようというのもあるんですが、当時はほとんどお手上げ状態でした。
そして会社を飛び出す。
2社目に転職する際には、同じ島(スタッフ)で働く方には転職前にお伝えしました。
ただ見た目普通だから、あまり問題視されていなかったと感じます。
実際に働いて、ものの数カ月(いや数日)で問題が多発。
前社同様に、スケジュールや、打ち合わせや、業務自体の遂行で。
加えて、不具合が生じることを伝えていない「外部機関とのやりとり」が業務上増加したことも重なりました。
なにせ、外部機関からすると、こっちに不具合があるなんてわからないからね。
僕の場合、身体には不具合がないので、見た目普通のおじ様!?です。
なので、がんがん本気でクレームが入ります。
そこは慈善事業ではなく、仕事なので。
そしてあえなく沈。。。
3社目に転職する際には2社目の経験も踏まえ、診断書、就労見解書、臨床検査、できるできないリスト、事前3者面談を行ったうえで就労しました(もともと開示してますが、もろもろここまで揃えたのは初)。
そして現在、社内の人には就業上不具合が生じることを伝え、なるべく顕在化する業務は避けてもらっているのですが、それでも100%回避することは不可能です。
たとえば、少し離れた方や外部機関とのやり取り。
いわゆる、障害のことを伝えていない方とのコミュニケーション。
メモを多用しても、代替手段を使っても、やりとりが繁雑になってくると処理できないのが現状です。
そういう時はどうしているか?
1回きりのやり取りだったら問題ないのですが、何回もやり取りしていく必要がある相手の場合は、不具合があることを先に伝えます。
特に、顔の見えない電話でのやり取りは、内容の聞き取りや相手の様子を伺うことが難しく、「当方、電話でのやり取りに難があり、お手数ですがメールでのやり取りでお願いいたします。」と伝え、記録の残るかつワンクッションこっちが考えるペースが保てる、メールでのやり取りをお願いするようにしてます。
こう伝えれば、相手にも「ちょっと不具合がある方なんだな」というのがやんわりと伝わります。
この「やんわり」というのが結構ポイントかも。
就労上の課題を、補助具などを使って自分で対処できるのであれば、特に周囲には伝えませんが、自分一人では対応しきれない場合、やんわりと周囲に配慮を求めるようにしています。
一見、自分の評価を落としてしまうようにも見えるかもしれませんが、「見えない障害」は、そうすることによってお互いどうしたらよいかが見えるようになり、結果、円滑なコミュニケーションや就労や信頼構築につながると感じています。
周囲の配慮に100%依存するのもおこがましいのですが、一方で「ちょっとした配慮を頂くことでお互い生活しやすくなるよ」というのも、周囲の方々に理解してもらえるようになると嬉しいというのが本音です。
なによりも職場のメンバーは、就寝時間を差し引けば、家族よりも一緒に過ごす時間が多いわけだからね。
実はこうやって、少しずつ世の中に「高次サポーター」を増やしていくのが、僕の秘密作戦だったりして。
そうすれば、今就労に困っている方や、不幸にも今後受傷される方にとっても優しい社会になるよね。
いずれ、一億数千万人がサポーターになるといいな。
そうすると、僕もブログ書かなくても済むかもね。
そんなことを夢見る、11月下旬の夜でした。
情報量と高次脳。 [高次脳_ふと感じたこと]
11月ってこんなに寒かったっけ?
受傷後、とても寒がりになりました。
当然ながら、体もスリムになり肉体的に寒さに弱くなりました。
あわせて、気温の変化に過敏になるという精神的なものもあるし、脳障害なので物理的に気温変動への対応みたいなものが弱くなった感じもあります。
とにかく、ちょっと冷えただけで過剰に「寒い情報」が脳の中を駆け巡って、末梢の身体をブルブル震わせます。
情報の処理って難しいね。
先日、本が読めない(全く読めないわけではないですが、登場人物が多かったり話が複雑な本は記憶障害で苦手)のに、本屋さんに立ち寄ったら、知り合いが書いた本が置いてありました。
どうやら相当売れてるらしい。
言語リハ(ST)を受けている僕としては、本のタイトル自体も興味ありありなのですが、さらに気になるグラフを発見。
世の中の情報量は10年間で約530倍に。
総務省「平成18年度情報流通コンセンサス報告書」のグラフ。
詳細を見たい方は総務省のHPへぜひ。
一言で言うと、インターネット、IT、電子化によって、情報量が10年間で530倍に増えているということ。
10年間で530倍!?
ちなみに、厚労省が「高次脳機能障害」を本格的に研究対象として取り組み始めたのは、2001年。
一方で、このグラフによると世の中の情報量が上がり始めたのが平成13年あたり。つまり2001年。
高度医療・救急医療の進化、インフラの整備、助命率の向上など、高次脳機能障害者が物理的に増えているのは間違いないのですが、一方でこの「情報流通量の多さという社会環境」が、高次脳機能障害をより顕在化させていると感じます。
よくメタボ系の病気で「現代病」なんて言いますが、高次脳機能障害は「現代障害」と言ってもいいのかもしれませんね。
いずれにせよ様々な要素が重なって、現代社会における高次脳機能障害者の社会復帰が問題化・複雑化してきているんでしょう。
事実、受傷レベルが私と同程度の知人の多くが、就労上極めて苦戦しています。
あえて“極めて”とつけます。
情報社会が、障害を産むとは何たることや。
一方で、今までは声を出せなかった当事者が、世の中に情報発信できるようになったのも情報社会の恩恵。
高次に限らず、色々な病気や障害の方々の闘病ブログがたくさん世の中にはあります。
それだけではなく、障害の説明や講演会などの情報も知ることも。
情報社会が、障害との共生に役立っているのも事実。
情報って、我々にとっては両刃の剣みたいですね。
うまく情報処理ができるようになることも、うまく高次脳機能障害と付き合う一つの手段だと思っています。
事実、情報処理ツールには自身、相当こだわってます。
メモの取り方、見出しの付け方、マーカーペンの引き方、ノート使い分けなどのアナログ対応から、スケジュールの組み方、余分な情報を入れない技・アピール方法、収納方法(evernoteが結構活躍)、スマート端末(iPhone)など高度な技まで。
ここまでやっても、就業上は追いつけないのが現状。
できれば情報量が多くない環境にいたいのですが、社会と共生するには、社会の流れに合わせる必要もあり、情報処理能力がより一層求められるのも事実です。
情報量と高次脳。
非常に相性が悪い組み合わせなのですが、自分の中で、どこかで折り合いを見つけなくてはいけなく、今でもトライアンドエラーで模索してます。
模索しつつやっと5年。
まだまだ発展中です。
2013年8月~10月ラップアップ [ラップアップ]
11月になりました。
もろもろ忙しく、3か月もラップアップ(その月の振り返り)記事を書いてませんでした。
なんたることや。
記録は記憶のために。
記憶は未来の自分のために。
3か月分をまとめてみます。
■受傷して5年が経ちました。
⇒僕が社会復帰するときに、高次脳機能障害者の、自然退職を除く5年後就業率が、極めて低いことを聞かされました。当時は他人事と思ってましたが、今では自分事。
5年経ちましたが、復転職を繰り返しながらも、なんとか不器用ながらに働いています。
■歯医者がひと段落した。
⇒なんとか最低限のところで治療がひと段落となりました。
どうしても苦手です。
何が苦手かと言うと、音と麻酔注射と振動。
次は12月。
■半沢直樹を、最終回の前日に一気に見た。
⇒時代に乗り遅れたくないという思いと、国民の4割以上が見てるというのに見ないわけにはいかないだろうという思いも重なり、最終回を生で見るために一気に視聴。
同じ障害の人ならわかると思うけど、登場人物とシナリオが覚えられないため、相関図とあらすじをサイトで何回も確認しながらトライ。
続編が楽しみです。
■季節外れの台風がきた。
⇒季節外れの大型台風がいくつか来ましたね。被災された方心よりお見舞い申し上げます。
僕も電車がぎりぎり止まってしまうところでした。
■家の畳をフローリングにかえた。
⇒ペットのこともあり、家の畳をフローリングに。なんか見違えるように広くなった感じがします。
毎日住むところの環境って本当に大切ですね。
■娘の誕生日だった。
⇒おもちゃのクレーンゲームがほしいと言っていたので、それをプレゼントしました。
お菓子とか入れて、みんなで楽しんでいます。
僕も楽しんでます。
■子供の運動会
⇒前述の記事通り。一眼レフ略して眼レフでガシガシガシと撮りました。
何よりも子供の成長した姿が見れてうれしい限り。
■子供会の秋の釣りイベント。
⇒大人げないというかなんというか。今年もこっそり「赤さし」を用意して挑戦。
ハヤみたいのを十数匹程度釣りました。
たぶん来年も参加する気がもうしています。というか自分が参加したいんでしょう(笑)
■仕事が忙しかった。
⇒単月の残業時間で見ると、受傷後一番多かったかな。
アウトプットはどうであれ、僕にとっては忙しかったのは事実だし、遅くまで働けるようにはなったのも事実。でも、普通の人と同じようにこなせるわけでないのも事実。
メモ・ICレコーダーをフル稼働させても、ハンディキャップは埋まりきらない。
■軽いフラッシュバックを起こした。
⇒広言してませんが、9月に朝の通勤電車の中で発症。会社ではなくそのまま病院に。
負荷を与えすぎたか、安定してきたところだっただけに残念。
本当にこの障害は、自分から見えないので、負荷の掛け方が難しい。痛切。
本人からすると自分から障害を見に行くことは、この上なく勇気がいるし、気付いた際には精神的にショックが大きい。
でも、確認しに行ったことは無駄にならないし、自分を褒めてあげたい。
先日、子供の悔し涙を初めて見ましました。
長男は野球をやっているんだけど、試合で、延長逆転負けしました。
終わった後に声をかけようとしたら、目を真っ赤にしていて声をかけられませんでした。
今まで、親に叱られて泣いているとか、友達とけんかして泣いているというのはあったが、悔し涙というのは初めて。
子供の悔し涙を見るというのは、親として感慨深いものがあります。
それだけに、とても印象的でした。
記録は記憶のために。
記憶は未来の自分のために。
以上、記憶障害者の、ここ数カ月の印象深い記憶です。
秋のひとコマ。 [日常のこと]
最近、日常のことを全然書いていませんでした。
そもそも僕は、40代のおじ様!?でもあり、サラリーマンでもあり、3児の父親でもあり、だいぶ細くなりましたが一家の大黒柱でもあり。
ちょっと脳に不具合のある、普通のパパです。
そんなパパの秋の日常のひとコマを。
秋といえば子供の運動会。
先日、我が家は3人分の運動会があり、子供たちの成長した姿を見てきました。
そして、受傷後に始めた趣味「一眼レフ」が、火を噴きました。
壊れたわけではないですよ。
だいぶ使いこなせるようになって、連写モードで躍動している子供たちを、ガシガシ撮ってきました。
ちなみに、運動会の場所取りと写真撮影で、その年の父親の威厳が保たれるといっても過言ではないでしょう(笑)
そんなガシガシ撮った写真の一部。
チアリーディングで側転する次女。
まだ4歳。
幼稚園ではチア部なのです。
将来が楽しみ。
ダンスで決める4年生の長女。
ずいぶん子供っぽさが抜けてきました。
リレー選手に選ばれて、いいとこ見せた5年生の長男。
来年のバレンタインデーまで効果は持つか。
障害のこともあり、いまいち日時感覚や歳月の感覚が戻りきらず、よく妻に「もう子供は高学年なんだよ」と言われます。
つまり「あなたが思っているよりも、子供は成長してるのよ」と。
なので、こうやって年行事で、子供の成長を自分に改めて認識させています。
子供の成長は早いね。
僕が倒れた時は、上二人は幼稚園生で、次女はお腹の中でした。
病気になるし、障害も負うし、記憶もなくなるし、できることができなくなるし、でも子は成長するし、周りも成長するし、環境は変わるし、世の中も変わっているし、時は一定の速度で流れる。
なんだか色々なことがミックスされて、自分からすると何とも言えないごちゃごちゃした感じなのですが、最近、だいぶこの状況にも慣れてきました。
この、ごちゃごちゃ感になれることが、実はリハビリの極意だったりして。
時の流れに身を任せるのも、悪くないなと思えるようになってきました。
近くの川で見つけた秋茜。
鮮やかな茜色。
受傷後、6回目の秋を、今年も無事に感じることができました。
共生 脳を支配するもの ~5周年記事~ [高次脳_ふと感じたこと]
※この記事に自問自答していて、更新が遅くなりました。
5年たったいま、乱高下はあるものの総じて就労が上向きになってきました。
こなせることも増えてきて、それなりに残業することも。
昨年は「こなせないことが多い」と会社からダメ出しを受けましたが、
今年はなんとかドローに持ち込みたく、自分なりに奮闘しているところです。
ちょうど今、受傷5年後の各種神経心理テストを受けているのですが、相変わらず新しいことを覚える力や暗算など、主に前頭葉機能まわりは不具合を感じます。
今年のスコアがどうなっているかまだ判りませんが、今までの臨床スコアは、受傷後2-3年くらいまでが回復のピークで、そこから劇的な向上はあまりみられません。
でも就労上では、昨年(受傷後4年目)と今年(受傷後5年目)を比べると、パフォーマンスが向上しています。
自己評価だけでなく、たぶん雇用側の評価も同じ認識かと。
臨床スコアは大きく変わっていないのに、なぜ、このタイミングで就労上のパフォーマンス向上が起こるのか?
ここからは、私的な感想。
○実脳機能の向上。
確かに、脳機能の回復自体は2-3年で頭打ちのイメージがあります。
しかし、そもそも臨床スコアで評価取得できる項目自体、就労上で使う脳機能の一部や主要な部分のみを抑えているにすぎないとも思っています。
臨床スコア上には出ないけど、社会生活・就業経験の積み重ねで、検査に出ない脳機能や、残された脳機能が学習・向上していると、誠に勝手ながら感じています。
そして、失われた機能をある程度補完・代替し、複雑でない業務の、スピード・クオリティは向上してきたのを実感してます。
「それでも脳は向上する」
○自身の障害の受容。
これは、前回、前々回の記事を見てね。
ここまで自分を振り返れば、受容困難と言わる障害受容も促進されるし、100%保証できるものではないけど100%諦めることもないよ、というのは言い切れます。
「それでも脳は自分を受け入れる」
○代替手段の習得・熟達。
メモやレコーダーや速記、コミュニケーション技量、スケジュール管理、タスク管理、情報整理などなどなど、あげるときりがないのですが、いずれも毎年進化しているのを感じます。
たとえば、メモの取り方。
以前よりも、メモをとる量が少なくなってきました。もしかしたら記憶力の向上があるのかもしれませんが、それよりも、どこを記録すれば効率良くメモが取れるようになるかを習得してきた感じがしています。
効率を上げて負荷を下げれば、その分、他の作業に能力を回せます。
「それでも脳は学習する」
○支援者のマネジメントの重要さ。
高次脳機能障害は、本人が自分をマネジメントできなくなる障害なので、軌道に乗るまでは、支援者のマネジメントが極めて重要だと感じています。
ついつい負荷をかけすぎたり、過度に悩みすぎたり。
事実、今でも薄く長く、リハ介入を継続しています。
近親者への報告は感情が入りやすいですが、専門職や第三者への客観的な報告は、客観的な指摘を得ることが可能。プラス自分の客観的な振り返りにも貢献。
結果的に、安定した就労につながったと認識してます。
「それでも脳は人を頼る」
○周囲の理解の必須。
もちろん職場の方々には、「高次脳機能障害」を有しているというのは伝えてあるのですが、当初は「全般性不安障害」などの、「症候群、シンドローム」ぐらいの認識でしかなかったと感じます。
現在の就業先で2年経過したのですが、就業上関与が深い方は、たぶん「この人、サボってるんではなくて、本当に不具合があるんだな」というのをリアルに感じていただけるようになりました。
そして理解だけに留まらず、実際に就労環境の調整に対応していただき、昨年より、残された機能でこなせる業務内容へとシフト。
上向きになった主要因です。
逆に言うと、こんなブログ書いたり講演したりできても、いわゆる普通の会社で働く以上は、周囲の配慮がないと就労は円滑にはいかないと感じます。
金八先生のお言葉。
”人という漢字、人は人によって支えられている”
「それでも脳は人を信ずる」
○自信・自尊心の回復
前回、自身の振り返りや布石をザッと書きましたが、それよりはるかに多くの経験を、就業上で実体験しており、その積み重ねが自信とつながっています。
これはどの病気・障害でも共通なのかもしれませんが、自己認識機能が失われる高次脳機能障害の場合、特に再構築が難しいのも事実です。
マイペースで積み重ねること、そこを支援者がマネジメントすること、達成したことは必ず記録すること、この3つを意識してやってきました。
記録は記憶のために。
記憶は未来の自分のために。
「それでも脳はプライドを取り戻す」
私が通うグループリハの、当事者のお母さんのお話し。
息子さんは、数年前はとても手がつけられず表にも出せない状態でしたが、今年から就労が決まり安定してきたとの話を、先日伺いました。
「落ち着いた要因は?」と聞いたら、雇用先の上司や仲間がとても理解のある方で、とても良く障害のことを理解して対応を頂いているとのこと。
何よりも、「仕事に行くのが楽しい」そうです。
そして、生活全般も落ち着いてきているとのこと。
就労が安定すると、問題行動なども減ります。
なぜならば、客観的な社会的評価を得られるから。
障害を抱えても、自分の存在が社会から認められるのを感じると、上向きに転換すると信じます。
そして、
周囲も否定しなくなり、
自分自身も否定しなくなり、
そこに初めて、共生の場ができるというのを、自分も経験しました。
脳を支配するもの。
それは脳機能ではなく、
自分の想いやビジョンではないかと、
5年目にして切に感じています。
5年たって、この障害と一生共生していく自分の姿が、やっと見え始めてきました。
障害は、なかったことにはできません。
だけど、「人生半ばで病気で記憶が悪くなった一人の生活者」として社会と共生していくことは、可能であると信じます。
「それでも自分はあきらめない。」
同じ高次脳機能障害の知人達と、飲みながら良く語る言葉があります。
「ワレワレが戻る社会は二つあるわけではない。戻る社会は一つである」
障害を認識するきっかけ「受容」 ~5周年記事~ [高次脳_ふと感じたこと]
※長いけど、がんばって振り返ってみたので、最後まで読んでね。
障害の「認識」には、いくつかの段階があることを、前の記事で書きました。
「認知」「理解」そして「受容」。
5年という歳月を振り返り、ざっくり意識変容の経過をステージ分けすると、上記のようになると捉えています。
今回は、3段階目の「受容」について。
「受容とは?」
受け入れて、とりこむこと。(大辞泉)
読んで字の如し。
しかし、高次脳にとってこのステージが最も難関であると感じてます。
なかなか受け入れられないんだよね。
周囲から見えないし、自分からも見えない。
周囲も期待しちゃうし、自分も期待しちゃう。
病前のキャリアもあるし、自尊心・プライドもある。
受傷時期や価値観や生活環境など、人によって様々ですが、おおむね私も含め、サラリーマンバリバリバンバン時代に受傷された方は、このキャリアの存在が障害受容を困難なものにしていると感じます。
「障害をなかったことにできる」という期待を、心の底で抱いていたと感じます。だから「こんなの自分じゃない」とか「環境変えればもっとうまくいく」なんて、半ば強引に復転職したり、あがいたり、もがいたり。
では、なぜその状況から逸し、受容することができたのか?(いまだ受容できたとは言い切れませんが)
そこにはいくつかの要因があげられます。
ひとつは、復転職を繰り返すことで、徐々に自分の障害の特性を体感で捉えるようになったこと。
いわゆるトライアンドエラー。
社会復帰後、病前のようにうまくいかないことが頻発しました。周囲からも白い目で見られ、精神的にも多大な苦痛を伴いましたが、一方で、障害への気づきや自己対処策も早く習得したと感じます。
最近は「エラーレス」という手法もあるようですが、社会と関わること自体がリハビリと捉え、あせらず、無理せず、でも0.1歩先の自分を描いて、新しい自分創りをしていくことが、障害受容につながると信じます。
失敗しても、挑戦したことは無駄にはなりません。
リハビリを継続していたことも、大きな要因と感じます。
社会復帰直前は「リハビリもう止めようか」なんてことも言っていたのですが、薄くでも継続していたことによって、結果的に、専門家による客観的継時変化の取得や、サジェッションが中長期に得られ、自分や家族では気づけない指摘を要所要所いただきました。
それだけにとどまらず、自分からの第三者への報告は、自分にとっても客観的な振り返りとして認識されます(近親者への報告は感情や愚痴が多い)。
受傷程度にもよりますが、長期支援・介入は、最終的には当事者のQOLも医療経済的にもプラスになるかと。
本人が自立できれば、パートナーが働けるし、二人で働ければさらにプラスに。
そんな状況の中、最も障害受容を促進させた出来事があります。
それは、「自分を振り返ること」でした。
それも、オフィシャルな振り返り。
受傷後、1-2年後、働けば働くほどうまくいかず訳がわからずパニック状況に。
苦戦を見かねたOTさん(ジョブコーチ兼任)から、困っている同じ境遇の患者さんにアドバイスをしたり、自分の経験を共有することで、「自分に何が起きたかを客観的に振り返ること」を勧められました。
さりげない、障害受容の促進策ですね。
これが、結果的に僕には相当効果的で、今の自分を支えています。
以下、その「自分振り返りイベント」の経緯を記載。
■2011年2月、臨床作業療法という専門誌に、当事者の寄稿欄に執筆(掲載は2011年12月号)。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2011-10-14
タイトルは「働くことが最高のリハビリ」。
おいおい。
こんな状況下でこのタイトルをつけた、自分に拍手を送りたいと思います。
たった800字の原稿を、2カ月以上かかって書きました。
というか、文章がまとめられなかったんです。当時の下書きをみると3000字以上となり、やり取りさせていただいた出版社の方からは「相当文章をまとめるに苦労されてますね」との指摘が。。。
■同じく2月、OTさんから、「病院の家族会で、その経験をお話ししてくれませんか?」と依頼され、同じく復職で苦戦している数名の当事者・家族の前でお話ししました。
このとき、初めて高次脳機能障害のスライドを作りました。
http://www.slideshare.net/asayume001/110225
たった6枚を作るのに、これも実は1-2ヶ月くらい費やす。
パワポの習得に時間がかかるのではなく、自分に何が起きていて、どうまとめたらよいのかが、わからなかったのです。土日も、ずっと家にこもって。
この時、初めて「自分は見えていないんだな」というのを、とても体感しました。
実に、就労復帰2年経過した後の話。
「見えない障害」に、本気で向き合うきっかけとなった原点。
この時に、「これは相当おかしい。真剣に向き合わなくては崩壊する」と思い、「自分に起きたことや、今の自分をまとめてみよう」というのを始めたのがこのブログ。
■2011年3月、このブログを始める。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2012-03-01
ブログ自体、病前にも経験がなく、全く初めての挑戦。嫌になったらいつでも辞めようと思いつつ、はや2年半。継続は力なり。
■2011年6月、自分を見直すために、一時仕事をお休みに。
雇用先の上司には事前に高次脳機能障害のことは伝えてあったんですが、雇用先は把握しておらず、不安定飛行になっていたので一旦休息。けじめをつける。
■2011年10月、ふとしたきっかけで、現在の雇用先に転職する機会をいただき再々就職。
今度は、医師の診断書・就業見解書・神経心理スコア・できるできないリスト・障害のパンフレット・自分の高次の特徴リストなどなどなどをオフィシャルに提出して、再トライ。
同時に、当事者会への参加や、講演活動が活発になります。
■2011年10月、南多摩障害者就労促進プロジェクトで講演。
このときのスライドはこれ。
http://www.slideshare.net/asayume001/111016-15084370
前回よりもかなり進化しているかと。参加者も医療従事者メインで50名ほど。口から心臓が出るほど緊張して、終わった後、実は病院のリハ室で横になって休ませてもらいました。
■翌2012年6月。
前回の講演がきっかけで、とある大学の作業療法専攻の学生3年生に90分講義。
40名ほど。自分が大学の講義に立つとは夢にも思いませんでした。やればできる。
このときの記事と40人の夢はこちら。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2012-06-06
■2012年10月、府中市の学習会で講演。
40名ほど。ばらつきはあるものの総じて軌道が上向きに。
このときの記事はこちら。
http://www.slideshare.net/asayume001/121104
■2013年1月、STさん向けに講演。
専門職50名ほど。このときのスライドはこれ。
http://www.slideshare.net/asayume001/s-tnet-130112
■2013年2月、かしのきひので10分ほど登壇
150名。参加者が3ケタ以上いなっても、話せるようになりました。
http://www.slideshare.net/asayume001/130224-16780752
■2013年3月、永世病院さんで回復期当事者の方に90分ほど講演。
20名ちょっと。回復期の方とお会いするのも、本当に自分にとっては大きな挑戦でした。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2013-03-17
■2013年6月
とある大学の作業療法専攻の学生3年生に90分講義
2年目突入。このときの記事と47人の夢はこちら。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2013-06-12
■2013年7月、東京都心身障害者センターで40分ほど講演。
300名。高校の軽音楽部以来の大勢の前での登壇。
http://asayume001.blog.so-net.ne.jp/2013-07-19
ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。
自分の性格上、向き合うと決めたら、とことんやろうと思うタイプの人間であり、結果、障害受容のためにプラスになると思うことは、すべて挑戦してみました。
もともと人前で話したり、企画を組み立てるのを得意としていたのですが、ここまで徹底的に自分を振り返って、オフィシャルに他人に語るようになると、さすがに自分の障害を把握できるようになってきました。そして講演する毎に、講演の規模、時間、クオリティが上がっているのを、周囲からも指摘をいただいています。
振り返るごとに、自分が正しく捉えられるようになり、見えない障害の「受容」につながったと信じています。
50万人いたら50万通りのやり方があり、こんな極端な破天荒なぶりなやり方が、到底、万人に当てはまるとも思えないのですが、でも、「自分を客観的に振り返ること」は、受容に大きく結び付くと感じます。
そして、一人で孤軍奮闘見に行くには余りにも負荷が大きいので、その状況を周囲が理解して、応援してくれるようになると、負荷が分散され円滑な障害受容や社会復帰につながると思います。
だから、周囲や支援者の理解が必要な障害なのです。。。
講演の際に、必ず言うことがあります。
ワレワレは社会復帰がエンドポイントではなく、社会との共生がエンドポイントである。
ワレワレは障害者である前に、一生活者であり人である。
障害の受容は、とても多くの困難やハードルを乗り越えながら達成されると感じます。
ニューヨーク大、Rusk前頭葉プログラムというのがあるのですが、そこには、当事者はエベレストの頂上を目指すぐらいの覚悟にコミットすべきであると記載されています。
実際、軽度だから復帰できたというよりも、本当は相当な困難とそれを乗り越えるための工夫を、たくさん経験してきたから、今の自分があると感じてます。
ここまで記事を書ききるだけのことは、一通り経験してきました。
逆に、僕の当事者仲間にも同じように乗り越えてきた同士も結構います。
ぜひ周囲の方は、当事者本人のこの状況を理解していただき、新しい自分創りを応援してくれると、お互い気持のよい社会環境になると思います。
ここまで来ると、その先の「共生」という、エンドポイントが視野に入ってきました。
では次回は、「共生」について。